不条理文学から学ぶこと

フランツ・カフカ『変身』と三島由紀夫『金閣寺』を比較して。

 前者は実存主義や不条理文学と呼ばれ、作者のフランツ・カフカはプラハのユダヤ人の家庭に生まれ、19世紀初頭のカフカが31歳の時の作品であり、後に不条理文学としてアルベール・カミュの『ペスト』と並び評価された。

森山直人編『近現代の芸術史文学上演篇Ⅰ20世紀の文学・舞台芸術』では「「実存主義」とは、人間を普遍的で抽象的な本質から考えるのではなく、個々の実存から、望むと望まざるとに関わらず、現在に、既に存在してしまっているという事実からとらえられる思想のこと」としている。

作者の代表作である、『変身』では主人公がある日突然巨大な昆虫に変身してしまい、周囲の家族からも遂には見放されてこの世を去る話である。ここには突然理由もなく訪れる災難への不条理さ、その災難に対する世間の扱いの不条理さを揶揄的に表現している。
不条理文学として著名であるアルベール・カミュの『ペスト』についても、ある日突然病理が襲い、多くの人民が亡くなり、周囲から排除されていく不条理さを描いている。

『変身』は個人に対しての不条理、『ペスト』は集団への不条理を描いており、目の前の現実を受け止めながら生きていく実存主義の哲学を踏襲しているとされている。

三島由紀夫は1950年に京都鹿苑寺(金閣寺)で起きた火災事件の調査を行い、これを題材にした作品が『金閣寺』である。
三島は早熟の作家として多くの作品を執筆したが、本作品は現実に起こった事件を題材にし、三島の世界観や思想を垣間見ることができる作品として多くの研究がなされている。
作品中の主人公が抱える重度の吃音や、世襲として周囲から寄せられる本人の意思とは反する期待と修行先である金閣寺の周囲の評価と現実の差を自身に重ね、金閣寺と共に心中を図る内容である。
事件では最後に犯人が現場近くで自殺未遂を図るが、作品中では自殺行為を放棄し突如「生きよう」という展開で終わる。

当時の雑誌『文芸』(昭和32年1月)での批評家・小林秀雄との対談において三島は、「美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた」と、記録されている。

有名な話だが、三島自身は1970年11月に市ヶ谷の自衛隊駐屯地にて抗議を行った後に自決してこの世を去った。

作家として作品を残しながら、独自の「美学」を築きあげ、戦後の変容する日本に対し強い反感を抱えていたとされ、本作品を通して三島が現実社会と芸術家との狭間における大きな葛藤が独自の世界観を生んでいるように感じる事ができる。

これは、カフカの描く不条理の世界に通ずるのではないだろうか。

『金閣寺』の主人公の置かれた社会的な立場と責任、一方で当人が抱えるコンプレックスによる社会との捻れや失望感があるにも関わらず、最後は現実を受け入れる事主人公の心情は、『変身』の主人公が、家族から頼られていたにも関わらず、突如不条理な境遇の変化に社会は変化しないという、現実と類似していると考えることができる。

さらに、カミュ著『シーシュポスの神話』における不条理の論理がこの両作品を繋げる。

神から受けた罰に対し、主人公のシシューポスの意識が「私は、すべてよし、と判断する」としたことで、不条理を受け止め幸福を感じるに至る。

人生には様々な出来事があり、中には多くの不条理と感じる事象が存在するが、それをただ不満を抱くのではなく、受け入れることで、「生きる意識が変化していく」という、普遍的な「理」が両作品に込められていることが分かる。

カフカは『変身』を執筆する前の1911年にプラハでのイディッシュ語劇団との出会いを契機にユダヤ人の研究を熱心に行っていた事が佐々木博康著『カフカのある犬の探求(1)―音楽犬と食物の探求―』に記録されている。
その後間も無く執筆された本作品の主人公の突然の変身は、カフカ自身の自己の民族性への目覚めを比喩した内容ではないかと筆者は感じている。


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