日本書紀の日本語

 日本書紀は(以下紀)720年に完成したとされる712年に成立した『古事記』と並ぶ日本の最古の正史である。

681年に天武天皇が、天皇家や大王家の系譜を中心とした書物である『帝紀』、記紀以前に存在していたとされる史書『旧辞』の編纂を命じ、完成されたとされていることで、「勅撰国史」と呼ばれる。

編者は天武天皇の皇子舎人親王が中心となったが、実務者の記述が無い為詳細が不明のままである。

全30巻と系図1巻で構成されており、巻1・2は神話的な性格の強い「神代紀」、巻3の「神武紀」以下巻30の「持統紀」と各時代の天皇を時系列に記録する編年体を用いる。なお、系図は現存しない。

紀の記述特性として挙げられる、「一書曰」や「一書伝」などという表現を用い、文註を文章中に挿入している事は、神話的性質のある記述の多い『古事記』と比較して、『帝紀』、『旧辞』、朝廷の記録や個人の手記、中国史書、朝鮮半島については『百済紀』等の多くの典拠を明記し、公正な方法による編纂に基づいた歴史書であるという立場で制作された書物であるとされる。

記は純粋な漢文で記述されているが、漢文としての誤字や当時の日本語の口語的表現である和習が含まれることから、様々な学術的見解が存在している。

森博達著『日本書記成立の真実』では、一人の撰者によるものではなく、複数の者により記述されたとし、倭音(漢字の日本音)をβ群、唐代北方音に基づいた原音(漢字の中国音)をα群とに分け、30巻のうち17巻を前者に該当すると分析している。

例えば、「是玉今有石上神宮」(是の玉は、今し石上神宮に有り)のうち「有」は漢文では「在」を用いるのが正当であり、当時の日本語同義で用いられていた「有」を和訓に用い、「誤用」と指摘している。著者は同様の誤用が16例あるとしており、うち14例がβ群に分類された巻内で見られ、残る2例は転載元の誤用をそのまま転記した事が理由であると分析している。

土橋寛著『古代歌謡全注釈日本書紀編』内の「叢書 月報22」で、吉井巌氏は紀の叙述の漢文表現に対し、歌128首に万葉仮名が用いられていることに、次のように疑問を持っている。

「(略)歌は音の要素を失ってはその本質を失うので、という考慮から、仮名書きの採用となったと理解することができる。しかし、一方では、『日本書紀』が中国の史書にならって、国家的立場から対外的意味をも含めて編まれたものである、ということを考えると、純漢文の表記に並べて、そこに漢詩を挿入するという形式がとられてもよかったのではないかと思う。」

また、同書の川端善明著「万葉仮名の成立と展相」『文字』においても歌に使用している万葉仮名に用いられる仮名が多種多様であり、画数の多い装飾効果や文字の視覚的効果に重点が置かれていると指摘している。どの歌に対し言及しているかはここでは明言していないため、筆者が抜粋し、比較を試みる。

『古代歌謡全注釈日本書紀編』の註釈では、「うるはし」は語源「ウラ(心)」「ハシ(愛し)」で愛しい、慕わしいという意味の主観的感情を表す形容詞である。

紀における景行天皇の望郷歌の一部の原文は

「許莽例屢 夜摩苔之于漏破試」(篭れる 大和しうるはし)

であるのに対し、記の倭建命の望郷歌の一部では

「夜麻登志宇流波斯」(大和しうるはし)

となっており、同じ「うるはし」の表現部分が「于漏破試」と「宇流波斯」と漢字が異なっている事から、記について吉井氏が指摘する『日本書紀』の仮名の装飾性を表していると考えられる。

「うるはし」は対象に対する賛美の表現であり、広義に言えば「美しい」に近いと筆者は捉えている。紀の中に収められている「77」の泊瀬の山讃め歌の最後に「阿野儞于漏虞波斯」(あやにうらぐわし)とある。

註釈によると「あや」は感動を表す感動詞に「に」を付加して副詞となる。「うら」はうるはしと同様に心、「くわし」は「妙」「麗」の意であるとしながら、土橋は「食はし」が語源ではないかと推している。「食ふ」は転じて「所有する」ことと同義であると神像や敵を食う習俗などから類推している。つまりただ、「美しい」ではなく、山を求める強い感情を表現しているとしているところは興味深い。よって「うらぐはし」は「うるはし」よりも強調された表現であると考えられる。

この山讃めの句は、古代において花などの自然を見ることによりその生命力を強化する事ができると言うタマフリの信仰により、花見や山見が行われていた事による句であるとしている。「見る」行為を通じて自然に宿る霊魂との心の交流が成立すると言う。これは、人為的な営みである政治から離れ、自然を讃え共生することで生きる「理」を唱える中国の隠遁思想や玄学や、俳人松尾芭蕉が希求した「風雅」と一体となる、すなわち自然の景物と友になることに通ずる思想であると考える事ができる。
古代から伝えられる紀は単なる史書に留まらず、当時の人の感情や情景を後世に伝える役割を持つと言う事ができる。

出典
西山松之助著『芸道と伝統 西山松之助著作集 第六巻』吉川弘文館、1984年

南博著『伝統とはなにか 伝統と現代①』学芸書林、1968年

小林真里編『文化政策の現在1 文化政策の思想』東京大学出版会、2018年

岡倉天心著『茶の本』青空文庫、2008年

野村朋弘著『茶道教養講座①伝統文化』淡交社、2020年11月27日

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