伝統についての考察

  「伝統」とは、なんであろうか。
この答えを導くために、複数の文献中の意見や事例から、伝統に対する対義語を導きだし考察を試みようと思う。

西山松之助著『芸道と伝統』では近世と現代に分け、伝統の成立と意味の違いを説いている。

近世に成立した芸道には総じて封建社会下における人々の生活習慣と結びつき、制度に則った道を極めた名人になる事を目指す「型」について、後世に伝える合理的な方法であったとしている。

一方で明治以降の国際化を目指す政治と共に一斉に変えられた習慣や意識は、これまで無意識だった文化を自問する契機となった。戦後の国際化に向けた新国家としての文化政策により、伝統という概念が日本に固定化されていった事から外的な力によって作られたものとしている。

西山は無意識に伝わってきたものを「慣習」、続けたいという意思と漠然とした価値判断を表すところの一つの観念を「伝統」とした。そして、文中の務台理作著『伝統』の引用から、「自己意思的な性格」が伝統には欠かせないとしている。

つまり西山にとって、伝統の対義語は「慣習」であり主体の意識の有無で違いを説いている。

文中のJ・Sエリオットの引用からは、積極性のある現代人の意識により成立するとし、積極性がなくなると因習になるとしていることから、この場合の伝統の対義語は「因習」となる。

南博著『伝統とはなにか 伝統と現代①』では多くの知識人の意見が掲載されている。

南は伝統芸術には呪術的な因子が中核にあり、未来に向かって変容して生き続けていることが伝統であるとしており、そうでないものは死んだ遺物であるとしていることから、対義語は「遺物」となる。

岡本太郎は当時の外国への自国のコンプレックスが生んだ、商業主義的且つ軽率な伝統形式に対し、無意味であると批判し、現実と向き合うことが正しい姿勢であり、民族の生命力を根源に求めている。この事から対義する語は「造作された形式」である。

また、加藤秀俊は日本がこれまで伝統自体に捉われず、環境に適応している事から、伝統がないという事が日本の伝統であると説いている。ここでの対義語は、西洋の伝統文化を意識した「伝統主義」となる。

集団の主体性の事例として、伝統行事である京都祇園祭の山鉾の組織や、東京都府中市の大國魂神社の大祭の祭礼組織は時代の変遷と共に、周囲の要望や環境の変化によって民衆化していく中で、伝承方法の変容を繰り返し行なっている。

両事例はある集団の習わしが徐々に世襲層だけでは維持しきれなくなり、民衆へ移管され形式化し、次世代へ伝承される方法をとってきた結果である。

ここでの対義語は「風俗」または「慣習」である。

また、飛騨の白川郷合掌造集落は村民による積極的な保存活動により、風習と建造物が伝統的であると現代に評価され、世界遺産に登録されている。

この場合の対義語は「風習」であると考えられる。

これらの対義語のうち、「形式」と「主義」以外は無意識下で伝承されたもので、「伝統」という言葉によって無意識から意識されるものへ変化している事を表している。

このことから、外部と内部から「伝える必要性」が発生することによって、意味を置き換えた場合、「伝統」となると考えることができる。

出典
西山松之助著『芸道と伝統 西山松之助著作集 第六巻』吉川弘文館、1984年
南博著『伝統とはなにか 伝統と現代①』学芸書林、1968年
小林真里編『文化政策の現在1 文化政策の思想』東京大学出版会、2018年
岡倉天心著『茶の本』青空文庫、2008年
野村朋弘著『茶道教養講座①伝統文化』淡交社、2020年11月27日

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