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ある日の あの日〈7〉

子供達の声が、聞こえる。
チャイムが、鳴っている。
今、何時間目だろう。
そろそろ仕事に行かなければ。


アパートのある町は、駅を降りると、
昔ながらの商店街のある町だった。
活気ある商店街は久しぶりだった。
店先には毎日コロッケやシュウマイが並んで、
どれもみんな美味しそうだった。
その頃、過度のダイエットをしていた私は、
それを横目で見ながら、
商店街を抜けてすぐのお豆腐屋さんで、
お豆腐ではなく、ところてんを買っては、
アパートに帰っていた。
アパートの窓から小学校のプールが見えた。

30歳はもうすぐだった。
まわりの友達は、
結婚したり、家庭を持ったり、
重要な仕事を任されるようになったり、
していた。けれど、
私はまだ、
何をしたいのか、
何をしたらいいのか、
何ができるのか、
何………、
「何」の後に当てはまる文章でさえ、
よくわからないまま、
日々の仕事を繰り返していた。
私は何かを変えたくて、
再び上京したのだった。
弟にもらった小さな車輪の自転車を持って。

3月の末に上京して、
すぐに居酒屋さんで働かせてもらえたのは、
仕事探しの苦手な私にとって、
ありがたい事だった。
長く働くつもりだった。けれど、
仕事の初日はもちろんの事、
極度の緊張に襲われる毎日が始まった。
私の全てがガチガチに緊張して、
スタッフさんはもちろん、
お客様にまで心配をかけるほどだった。
3日経って、
これは私には無理かもしれない、
とにかく1日休みをもらいたいと、
電話をかけると、
話がしたいからと呼び出されてしまった。

「変わらないと、だめだよ」
もらったのは、またその言葉だった。
「おとなしい」
やっぱり。またその言葉だった。
良い場面には出てこない「おとなしい」だ。
聞き慣れた、言われ慣れた言葉だ。

大きな声の出せない私は、だめです。
大勢の輪の中に入れない私は、だめです。
おとなしい私は、だめです。
おとなしい私は、暗いです。
おとなしい、おとなしい、おとなしい…
幼い頃からそう言われ続けてきた。
辞書に載っている意味とは少し違う
「おとなしい」を感じながら、
私はずっと、ずっと、ずっと、
変わらないと、だめだと、
おとなしいは、だめだと、
思い続けてきたのだ。

「変わらないと、だめだよ」
そう私は私の中で唱え続けて、
「おとなしい」は、
自己否定語になっていた。

自己否定という雨は、
どしゃ降りだった。

「変わらないと、だめだよ
そうやって逃げてたらまた同じだよ」
「その通りです」
私は何のために上京したのだろう。
ここで長く働くつもりで来たのだ。

その日から、私は、
自己否定と自問自答の日々を、
歩き始めた。
猛烈に押し寄せる自己否定。
それに、いちいち問いかけ始めた。
おとなしい。だめ?ですか?
おとなしい。悪い事?ですか?
おとなしい。何が?ですか?
おとなしい。何故?ですか?
おとなしい。暗い人?ですか?
おとなしい。つまらない人?ですか?
おとなしい。役に立ちません?か?
おとなしい。それで片付けます?か?
嵐のような自問自答を、?の後の言葉を、
母宛の手紙に、私は毎日毎日書き続けた。
そして、出さずに捨てた。
日記でなく手紙だったのは、きっと、
本当は聞いてもらいたかったから、
なのだろう。
けれど、出す事ができなかったのだ。

自己否定のどしゃ降りが降り注ぐ、
その先にあるもの。それは、
私は生きている価値がない、である。
生きているのが辛い、である。
死にたい、である。
けれど、死は向こうから必ずやって来る。
こちらから行くと、
もう一度この人生をやらなければならない、
のだそうだ。
私はそれを何故だかわからないが、
心底信じている。
もう一度この人生をやるなんて、
まっぴらごめんである。
それに私は2度と人間には生まれたくないのだ。
何とかこの回で、終わらせたい。
死にたいけれど、お迎えが来るまで頑張らねば。
今日生きていてもいいと思える何かが、
あるはず…。

私の頭の中は、嵐であった。
言葉が渦を巻いていた。
ある日、
仕事帰りの電車の中、
頭から足の指の先へと、
何かがざあぁっと、落ちた。
積み重なった言葉が、流れていった。

その1週間後位だっただろうか。
その日の仕事終わりは、
終電と始発電車の間だった。
こういう日は自転車で通勤していた。
ゴミを片付けて外へ出ると、
ざあざあと雨が降っていた。
本当のどしゃ降りだった。

始発電車を店で待つより、
アパートにすぐに帰りたくて、
私は雨の中へと自転車を漕ぎ出した。
小さな車輪が必死でまわっていた。
自転車で20分かかる帰り道は、
いつも少し遠さを感じさせたけれど、
どしゃ降りの雨は、暗さも遠さも、
全てを雨に変えた。
前も後ろも、右も左も、上も下も、
全てが雨、雨、雨だった。

家にたどり着くと、
当たり前に全身びっしょりで、
自分の下に水たまりができた。
着替えてようやく床に寝転べたのは、
うっすらと夜が明けてくる頃だっただろうか。

薄暗くしんとした部屋に、
私という生き物が転がっていた。
雨だけが、にぎやかだった。
ここで死んでも、誰にも気付かれない。
明日私がいなくても、何も変わらない。
そう思った。

すると、
体が動かなくなった。
動けなくなった。
私には霊感があまりないけれど、
どうにも体が動かないので、
そういう事らしいと思った。
そしてしばらくすると、突然、
私の背中が割れ始めた。
体は動かず、苦しい。けれど、
私の背中はどんどん割れて…
めくれ始めた。そして、
私は背中から、出た。
背中から私が、出た。

今のは一体何だったのだろう。
脱皮?のような?

動けるようになった私は、
恐る恐る起き上がって、
床を見た。
ひょっとして私の残骸があるのかと…
確認した。
何も無かった。
そして、鏡を覗き込んだ。
何も変わっていなかった。

けれど、
私は私に、なっていた。
私は私に、戻っていた。

どしゃ降りが、止んでいた。


自己否定のどしゃ降りが降り注ぐ、
その先にあるもの。
雨は溜まり、濁り、よどんでいると、
思っていた。
けれど、
雨は溜まり、川になる。
私の心の奥底に流れている、
川が見えた。
川のほとりに立つ。
川底を覗き込む。
私が、いる。

生きていることが辛い、私。
変わらない、私。
おとなしい、私。
けれど、
見つけた川は濁っていなかった。
よどんでいなかった。
私の川は、穏やかに流れていた。
濁ったりよどんだりしている所は、
まだたどり着く前だったのだ。
死にたい思いは、
まだ道の途中だったのだ。

川底には、
小さなささやかなものが、
たくさん光っていた。
私が拾い上げてきた、
たのしさ、うれしさ、
寂しさ、切なさ…私という断片。
私というものをつくってきた、
心動く事を大切に思ってきた、
私の断片は、川と共に、
川底で光り続けていた。
明るく穏やかに、おとなしく。
そして断片たちは、
ずいぶんと愉しそうであった。

水が澄むまで、
気が済むまで、
奥底にたどり着くまで、
自分のほんとうのほんとうを、
探さなければ、見つけなければ、
私は生きていていいと思うことが、
できなかったのだ。

脱皮するほど自問自答し続けて、
ややこしく時間と手間をかけて、
私が見つけたものは、
私は私であるという、
たったそれだけである。
なんだ、そうか。
である。
雨は降るものである。
けれど、止まない雨はないのだ。

これからは、どしゃ降りになったら、
私の奥底まで行けばいい。
濁ったりよどんだりしているところの、
それよりまだ先の、
私のほんとうの川まで行けばいい。


雨上がり。
5月の木々の間を、風が渡って行く。
澄んだ空に、新緑が揺れている。
私のすぐ近くを、たんぽぽの綿毛が、
通り過ぎて行く。
5月、美しい季節。
それでも、5月は辛い。
辛く、美しい季節。
生きているだけで、辛いのだ。
だからこそ、
これ以上自分を辛くして、どうする?


ある日のその日も、私は、
賑やかに盛り上がる店内で、
ひとり薄ら白い顔をして、
ガチガチに固まって、
カチコチと働いていた。

お皿を下げに私がまわっていると、
賑やかな席の端っこに座っていたお客様が、
手招きした。
「お、やっと来た来た」
そして、声をかけてくださった。

「あなたみたいな人を必要としている人が、
必ずいますよ。必ずどこかに。
ここにもひとり」
あなたがテーブルにまわって来るのを、
待っていましたよ、と。
あなたに伝えたかったのですよ、と。

お客様は帰り際、
もう1度だけ私の顔を確認すると、
さらりと会釈をして、
仲間とワイワイ帰っていった。

「変わらないと、だめだよ」
その通りだ。ここでは。
私の役割のある場所が、
ここでは、ない。
場所が違った、だけなのだ。

「変わってやるもんか!」
ある日、私は私に言ってやった。

2度目の上京は、たった半年で終わった。
けれど私は、
私の川底にある断片を使う場所を、
見つけて、歩き始めることにした。
ガチガチもカチコチも、
奥底に流れる川も、使おう。

川底に、
綿毛ひとつに心動く私が、
光っている。



今日私は、
手紙を書いています。捨てていた、
出せなかった手紙を書いています。
今日も私の所には、
ぱらぱらと雨が降っています。
けれど、空は青いです。
毎日狐の嫁入りです。
今日私はまだ生きています。
日々生きているのが辛い私を、
今日も私がおもしろがらせます。
「ほら見てよ、綿毛が飛んできた」って。
そして、あの日のあなたの言葉が、
今日の私を支えてくれています。

私のこのお手紙を、
あなたに読んでもらうのも、
どうかと思うのですけれど、
もう2度と会えないだろう、
どこの誰かもわからない、
あの日のあなたに。
そして、
あの日のあなたの言葉を、
あなたにも。
あなたみたいな人を必要とした人が、
ここにいます。
きっと他にも、います。

私が私であることを、
必要としてくださったあの日のあなたに。
私の一生分の感謝を込めて。

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