見出し画像

なぜ女性だけの読書会の居心地がいいのだろうか

こんにちは。読書が趣味のmiiです。

わたしは、ゆる読書会という女性限定のオンライン読書会で、ファシリテーターをしています。
また、HUC(母親アップデートコミュニティ)というママ限定のコミュニティにも参加しています。

ただ、女性ばかりに視点が偏るといけないかなと思って、無名人インタビューというqbcさん(男性)主宰のnoteのプロジェクトにも参加しています。(でもメンバーは、活動内容が原因かほとんど女性。)

どのコミュニティもとても居心地がいいです。
ただ、ゆる読書会とHUCは入る時には感じなかったのですが、無名人インタビューは入る前には、なんか他の二つには無かった変な気負いがあったように思います。なぜでしょう。
わざわざ「視点が偏ってはいけない」と考えて、ちょっと気負って参加したのは、なぜでしょう。(今は無名人インタビュー内でも気負っていません)

また、
私は、今の台湾駐在妻になるまえは、小学校の教員をしていました。
その時にはもちろん、男性教員もいました。わたしはどちらかといえばボーイッシュな方で、男性の先生にもがつがつ指示してさばいて仲良くなる方でしたし、公務員で男性も女性も同じ給与体系だったので、男性も女性もなく協力して働いていたと思います。
(とはいえ、校務分掌の「体育」「防災」などは男性教員が多かったですし、「家庭科」「音楽」「養護」などは女性が多かったです。それに関しては、まぁ、興味や好みの問題かなと思って自分の中で納得していました。)
なのに、今になって男性のいるコミュニティに入るのに、ほんの少しでも気負いが必要なのは、なぜでしょう。

女性限定の読書会の方が居心地がいい。

わたしは、先ほども言ったように、仕事で関わる男性社員とは割と上手くやっているほうだったのに、女性限定の読書会の方が居心地よく感じます。

読書が好きだし、もっとファシリとして上手くやりたいと思って、他のオンライン読書会に参加したことがあります。それは男性主宰で、男性と女性の割合は5:5くらいでした。事前に見たそのサイトの、以前の読書会開催レポートの中には、私が読んだことのある本がいくつか紹介されていて、本の趣味は似ていると思いました。
それでも、なぜか、ほんの少しだけ、入る前には変な気負いがあったように思います。私と同じ趣味の本を読むコミュニティなのに、私にとっては、「男性もいる」ということだけで、少し違った感覚を生むようです。

私の中では、男女の差別などない自分がいて、男性も女性も同じように接しようとしている自分がいるのに、いざ、男性のいるコミュニティに対すると少し、ほんの少しだけれどなんだか気負ってしまうのです。

なんだろう、この気負い、この違う感覚。
私は男性を恐れているのでしょうか。

男性のいるコミュニティに対する気負いの原因

やはり、小さい頃からの刷り込みがあったのかもしれない。
それは、誰かが私に刷り込もうとして刷り込まれたものではなくて、
常にいつも私の隣にあったもの
だと思います。

私は、子どもの頃は父母、兄と弟、祖母、私の6人家族でした。
父と母の会話を聞いていると、どう聞いても父は母にえらそうにしていましたし、母もそういったもんとして受け入れているように見えました。
でも、特別夫婦仲が悪いという訳ではなかったし、父は母に暴力を振るっていなかったし、母はよく私に「お母さんは、男も女もない関係ないと思ってる。」と言っていました。だから、子どもの頃は兄と弟と一緒に野球に参加させられたし、わたしが兄のおさがりの服を着ていても何も言われませんでした。また、高校や大学で進路の話になった時にも、特段の反対や妨害はありませんでした。

ちなみに、祖母はばりばりの男尊女卑でした。私が兄の服を着ていたら、「そんなズボンなんか履いて!」と言われたし、「女の子なんやからお母さんのお手伝いしなさい!」と言われました。「女の子だから高校卒業したら、短大に行って、いい人見付けて結婚できるといいね」と言っていました。
母の「男も女も関係ない」宣言は、祖母のこういった「女なんだから」「男をたてて」という圧力に反する意図があったのだと思います。
とはいえ、母自身の生き方を見て見れば、女として男をたてて、父の生活をサポートするべく家事育児介護をすべて引き受けていました。
わたしは母が好きでしたが、母のようにはならず自分で生計を立てられる仕事につこうと考えていました。
父も、あの祖母の元で育った父でしたから、特別に女を貶めるような発言は無かったものの、母が自分を立ててくれるのは当たり前と思っていたと思います。

テレビを見れば、
男性司会者のアシスタントとして、女性が半歩下がって後ろに着くのがおきまりだったし、女性が前に立ってぐいぐい引っ張っていく番組とかでは、その女性は「でしゃばり」というレッテルを貼られていました。今もまだまだあるとは思いますが。
でも、怖いのは、私自身がそういうテレビの慣習を、なんの違和感もなく受け入れていたことです。何だったら前に出る女性のことを「でしゃばり」と思っていると思います。今も少し。
それは、私の中に「男性が上、女性が下」という刷り込みがあって、「男性と女性は平等」と学校などで教えられたものよりも、もっと染み付いているからだと思います。

だから、
男性のいる読書会に参加して、私の中の「男性が上」という刷り込みから、自分の話したい事を話しにくかったらどうしようと思っているのかもしれません。
感情的に話したり、出しゃばった話し方をして、「これだから女は」と思われたらどうしようと思っているのかもしれません。

もちろん、世の中の男性が全てそう思う、という訳ではないです。
でも、そういう男性に当たってしまうかもしれないという危惧が、わたしに、男性のいるコミュニティに対するほんの少しの気負いを与えてしまっているんじゃないかな。
事故みたいなものにあう可能性があるといいますか。

仕事で男性と関わるのが大丈夫だったのは、それが仕事だったからで、そもそも仕事自体が気負ってやっているものでしたから、社会でうまくやることの一つにまとめられていたのでしょう。

でも、プライベートで、場を選べるのであれば、
今の私にとっては、女性ばかりがいる場の方が居心地がいいです。
ただ、私はこのことに、女性限定の読書会に参加するまで気が付きませんでした。男性女性の区別なく接していると思っていた自分が、「女性限定」とある読書会に参加することで、感覚の違いに気づいたわけです。
実に面白い。何事も経験ですね。

男性への気負いについて、私はどう思っているか

さて、今まで述べてきたような、「私の中にある男性への気負い」について、私自身がどう思っているかというと。
ほんとは、ちょっと嫌。
そんな気負い、辞めたい。
でも、いまさら私の中から取り去ることのできない感覚であるので、やっぱり、そーゆーもんとして受け入れる他ない。

これからも、女性限定の場所や、絶対私を貶めない男性と確信している人々との交流を軸に、ちょっと気負って、事故の可能性のある男性のいるコミュニティに出かけていくのでしょう。
でも、事故の可能性はあるんだけれど、やっぱり自分にとって為になる意見や、面白い話を聞けることも多いです。だから、これからも男性のいるコミュニティにも参加していきたいなと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?