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【読書】ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2

こんばんは。miiです。

先日発売になったばかりの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』を早速読みました。

今日はその感想をまとめます。

1、ノンバイナリーについて

「第三の性」とも表現されるこの言葉は、男性でも女性でもない、性別に規定されない人々のことを表す。息子の学校はLGBTQの教育に力を入れていて、レインボーカラーのネックストラップを下げた教員に子どもたちが相談できるようになっている。校長自らレインボーカラーのストラップを下げて歩いているし、それは当事者というより、この分野について研修を受けるなどして専門の知識を持っている教員たちも入っていて、彼らは科学や美術といった通常の教科を教えているが、自分が担当するクラスの子どもたちには、自分は男性でも女性でもないということや、生徒たちにどう呼ばれたいかということを最初の授業で説明するという。

イギリスのブライトンでの事例が書かれている。日本の学校では自らの性がマイノリティの教師はどのように教員生活を送っているのだろうか。私の周りでは、そのことを提起する教員は今のところいない。きっとノンバイナリーの児童もノンバイナリーの教師も存在しているとは思うのだが、私が気付けていないだけなのだろうか。今まで私のクラスでこの話題を扱ってきたことはない。わたしは、この話題を扱っていけるほど、まだこの話題について考えがまとまっていないし、また、考えるための情報でさえ集められていない。本書を読んでそのことを強く感じた。教師自身が知識を得て考えを持ち、そのことを児童と触れ合わせていく教育が大切だなと思った。

2,多様性について

以下は社会活動に熱心な教師(ミセス・パープル)の、授業でノンバイナリーについて扱うことについてのセリフ。

「第三の性は、正直、そんなに単純化して教えていいものかと疑問視している。……いろんなタイプがいるから、ノンバイナリーだけに重点を絞って教えるのもどうかなって個人的には思ってる。」
そういわれて、みればミセス・パープルはレインボーカラーのストラップを首から下げていないのだった。社会活動に熱心な教員たちにも、それぞれの持ち場があるというか、みんな考え方も、優先順位も違うんだなという当たり前のことに気づいた。誰のやっていることが正しいとか、誰の活動のほうが重要というわけでもない。互いを少し批判したり、疑問視したりしながらでも、それぞれの持ち場でやっていく。これもまた多様性なのだろう。いろいろと違う考えを持ち、いろいろ違う活動をしている先生がいるからこそ、それぞれ違う個性や問題を抱えた子どもたちに対応できる。多様性のある場所は揉めるし、分断も起こるが、それがある現場には補強し合って回っていく強さがある。

少々長い引用になってしまった。小学校教員として、とても心に残った部分だからだ。

現在学校で行っている教育内容について、自分なりの考えを持ち進める。この場面では社会活動のことについて書かれているが、生徒指導や各教科指導など学校現場のあらゆる場面で、それぞれの教師の得意とすることや興味のあることは違っていて、それを生かした学校づくりが大切なのだと改めて感じた。多様な子どもたちに対応するために教師も多様性をもった集団でありたい。

3,ミームについて

ミームとは、脳内に保存され、他者の脳に複製可能な情報と定義されている。今息子が言っているのはインターネット・ミームのことで、こちらはネットを通じて人から人へと伝わっていく概念や行動、スタイル、習慣のことだそうで、画像や動画、ハッシュタグなどを通じてSNSで拡散されていく。極右勢力や白人至上主義者たちがインターネットミームを使って勢力を伸ばしてきた事実はよく知られている。ティーンたちも、SNSを使っている以上そうしたものを目にする機会はある。

デジタルネイティブの子どもたちは大人から見えない所で、インターネットミームに触れる機会も当然ある、その時にどんなスタンスでそれを受け止めるのか、受け止めてどう判断するのか、その判断からどう行動するのか、現在の大人が学んできていない分野だからこそ、これでの家庭での教育は多様で時には不足していると考えられる。学校で知識・訓練としてデジタル・シティズンシップを身に付けていくことの大切さを感じた。

全体の感想

とてつもなく読みやすくてすらすら読めてしまった。正解のない問いに対して、さまざまな立場の人が出てきて、改めて社会の多様さを感じた。その問いに対して「ぼく」が納得解を求めてあきらめてない姿勢こそ、私が育てたい児童の姿だ。いい本に出会えたなと思う。また、読み返して登場人物たちに会いに行きたい。

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