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村上春樹はそんなこと思わない

僕が高校三年生のときだ。
部活も引退した僕は、ご多分に漏れず受験勉強に励んでいた。その頃の授業内容と言えばひたすら受験対策であるから、例によって国語の時間もセンター試験用の問題を解いていた。
(今ってセンター試験がないんだよね。自分の経験した文化がもうこの世に存在しないって、何だかおじさんの仲間入りをさせられたみたいで嫌だな)

その日は現代文の小説問題を解く日で、作者は村上春樹だった。
普段は本をあまり読まない僕だが、珍しく村上春樹の作品は愛読していたため、
心の中で「ラッキーラッキー、この問題は貰いましたわ。」なんて余裕をカマしていた。
しかし丸つけをビックリ、答えが二問くらいしか合っていなかったのである。
面を食らいながら答えの解説を読むのだが、さらにビックリ、内容がまったく理解出来なかった。
いや、理解は出来てはいるのだけれど、納得がいかなかったと言った方が正しいのかもしれない。
つまりこれがタイトルにある「村上春樹はそんなこと思わない」に繋がってくるのである。

僕が思うに、村上春樹の作風は試験の問題に相応しくないというか、適切に登場人物の心情を読み取らせるのには向いていないんじゃないか。
少なくとも僕は今までそういう風に村上春樹の作品を読めたことがなかったから。もちろん村上春樹の作品が心情を語る作品としては劣っていると言いたい訳ではないよ。
なんと言うか、僕は彼の作品を心を揺さぶられるような物語ではなくて、他の世界の出来事を垣間見るようなものに感じているのだ。何かヘンな事が起こったとして、その中の登場人物がヘンな考え方をしていても、そこが注目する点ではなく、そこで起こっていることの空気、雰囲気を味わうことが重要なことのような。でもそれだけで面白い。何だか上手く伝えられなくて申し訳ない。
僕には僕の日常があって、彼らには彼らの日常がある。それを切り取って少し見せてもらってるだけというか。これは僕が短編集を好んで読んでいたから感じることかもしれないけど。

だからそんな淡々と飄々と生きている彼らの心情を仰々しく汲み取り、ましてや考察をする事なぞナンセンスだ!と僕は思ってしまったかもしれない。あるいは。

上にも書いたが、普段は余り本を読まない僕なので、読んだことのある作者の作品が文章題として出るなんて初めてのことであった。
気づいてみれば、本を読む時は自分なりの解釈をしながら読んでいるのに対して、問題を解く時は「いかに解いてやろうか」、「重要なのはここか?」といった観点でしか文章を読んでいない。というかじっくり読んでいる暇はない。そして、答え合わせをする時には他人(多分作者以外の頭のいい人)の解釈をその問題の答えとして、疑いもせずに受け入れている。
作り手にしかその物語の真意は知り得ないはずであり(作者ですら知り得ていないかもしれない)、だからこそ受け手側の感じ方、汲み取り方は無限にあって良いはずなのだ。

だのに僕は村上春樹の文章題に会うまで何の疑問も持たずに解答の解説を読み、勝手に納得していた。
普段から小説に慣れ親しんできた人は常にこのような疑問を感じながら答え合わせをしていたのだろうか。
普通に楽しむ分には幾らでも可能性を広げることができるのに、問題に対しては読めば読むほど明確な答えから離れていってしまう。
なんだかおかしくて面白い話である。

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