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モヤモヤの正体

最近気持ちがモヤモヤしていた。

そのモヤモヤを夫がなんか物足りない(笑)とか

子供たちからの注文が多すぎることや

脳卒中をした義母がなんとなくそれとなく面倒見てくれオーラを醸し出してきている事とか、

そういう色んな事が重なってモヤモヤしているんだと思っていた。


巷では、自分を大切にするとか、自分の声を聴くとか、自分に優しくするとか、時代は自分第一時代。

実際私はこれには大賛成で、結局自分が満たされていなかったら、他を満たすことなんてできない。


だから私も必死に自分を満たそうとしていた。
自分がやりたくないと思うことは極力しないことにした。

元からさほど苦手でない人に頼むということも駆使した。


子供に洗濯物を干してもらい

夫に夜の食器洗いをしてもらい

何なら2週間に1回家全体をキレーにしてくれるお掃除屋さんまで雇っている。(オーストラリアの田舎の方ではあまり珍しくない)

自分に寄り添って、自分の声を聴いてみる。

美味しいものが食べたいのかも。
寝たいのかも。
休みたのかも。
絵が描きたいのかも。
ごはんが作りたくないのかも。

色々と要望は出てくるが、どれをしたって、満たされることはない。

「やりたくないことはやらない」にも限度がある。

母親になってしまったからには、育児放棄はできない。
ご飯を作らないわけにはいかない。

まあたまには外食したり、テイクアウェイすればいいのだが、
健康志向が後ろ髪を引っ張る。


モヤモヤが止まらない。

朝起き上がるのにも時間がかかる。

生理前か?いやまだ早すぎる。


実は私はこういう風になることがよくある。

そのたびに私はこのモヤモヤから抜け出したくてもがく。


そこから抜け出すきっかけになるのは、たいてい「いつか読んだ言葉」なのか「いつか聞いた言葉」なのかわからないが、ふっと脳裏に浮かぶ言葉だったりする。


いつも違う言葉なので、それが誰の言葉なのか、どこで読んだのかもわからないこともある。


スピリチュアルな人はコレを宇宙からの言葉と言うかもしれない。

私は10歳の時に大好きだった祖父を亡くし、息ができないほどに大泣きしていた時、母におじいちゃんは神様になったんだよ。と言われて以来、結構スピリチュアルだ(笑)


今回このもやもやから抜け出すきっかけをくれた言葉。それは


目の前にあることを楽しまなければ、どこに行ったって幸せにはならない。


的な言葉。脳裏にサッと写っただけなので、文章にするとはっきりわからないのだけど、そんな感じの言葉だった。


結局、今いるこの現状、

物足りない夫
注文の多い子供たち
面倒見てくれオーラを醸し出してくる義母
やることが多すぎる母(主婦)業
不便な田舎


これらを受け入れて、どうしようもない。と半ばあきらめて楽しむことができなければ、それこそグレートバリアリーフがあるような真っ青な海辺に住んでいたとて、何かしらの問題は付きまとうだろう。


考えてみれば、物足りない夫にしたって、
何が物足りないのかと考えれば、

君の母親の面倒見てるんだから(たまにご飯作ってあげたり笑)もっと感謝しろよ。

だったり、

お願いしたことサクッとササっとやってくれ


だったり、

ゲームしてないで、やることしたら。

だったり、


もっと私に構ってくれ

だったり

そんなもんだ。


私の一方通行の希望要望だ。
私のものすごく狭い視野から見た夫だ。

例えばこれがもう少しズームアウトして、

どっかのテレビ局が、我が家のドキュメンタリーを作ったとして、
夫に密着したとしよう。

きっとうちの夫は、そのドキュメンタリーの視聴者から圧倒的な支持を得るだろう。

それぐらいうちの夫はいい奴だ。

それを物足りないとか言ってるんだから、罰あたりもいいとこだ。

実際私は専業主婦で、働かなくても夫の稼ぎで生きていける。

ゲームしながらケラケラ笑っているのを腹ただしく思っている私を横目に、彼は私たち家族が必要なだけの収入はしっかり持ってくる。

家が散らかっていようと、

子供たちが叫びまわろうと、

私が責められることはない。


こうやって、夫を見る視点を変えるだけで、自分がどれだけ恵まれているのかわかる。


子供たちにしたって、
考えてみれば注文がない子供なんているだろうか。

自分でできないんだから、注文するわけで、

何も注文できないような親子関係じゃないと思えば、安らかな気持ちになるじゃないか。

最近は長女12歳の言葉遣いにカチンとくるが、
私は彼女の言葉遣いをそのまま言い返す。

こんな風に聞こえていますよ。
あまり美しくないですね。私は嫌いです。と言うように。

家は英語圏なので、子供たちの母国語は英語だ。
私の嫌いな彼女が使う言葉は、「What's up」(ワッツアップ)

洋画なんかを見る人は聞きなれた言葉かもしれない。

日本語も同じだが、トーンによってだいぶ印象が変わる。
彼女の場合、どこで覚えたのか、'sup (ッゥアップ)みたいな男の人が顎であいさつするときにいうような感じだ。

それをかっこいいと思っているなら、いくらやめろと言っても聞くわけがない。

私が中学生の頃、当時はやっていた腰パン(ジーンズのウエスト部分を腰まで下げて履く履き方)を、どれだけ親にやめろと言われてもやめなかったのと同じように。


ならば、私もかっこよく英語が話せるようになりたいから、長女のようにしゃべると言って、'sup (ッゥアップ)と言う。そうするとヘラヘラと恥ずかしそうな顔をしてどこかへ行ってしまう。

それを聞いて、イヤ、あんまりかっこよくないなと思えばいいのだが、もうそこから先は彼女の問題だ。

私だって、時が来た時には腰パンはダサいことに気が付いてやめたのだから。彼女もいつか気づくだろう。


両学長*がおススメしていた本、「限りある時間の使い方」にも書いてあった。
(youtube*リベラルアーツ大学の学長。お金の勉強はココでできるよ)


これさえ片付いたら、きっと心安らぐ時間が得られるはず。と思って我慢して必死にこなすが、心安らぐ時間なんていつまでたっても来ない。それが片付くころには、他の問題が列をなして待っている。
(私なりの解釈・要約)


注文の多い子供たちを、ねじ伏せようが、または聞き入れて、注文が出なくなるまでひたすら我慢しようが、言葉遣いをバツを与えるなりして治そうが、結局次なる試練(問題)はそこまで来ている。と言うかすでにそこにある。

結局すべてはあるようにしかない。
他人と言うのは、それが親子であろうと夫婦であろうと、外から圧を加えて変えられるような代物ではない。

それを相手が変わるまで心安らぐ時間が得られないのなら、それは永遠に訪れない。

自分がどう受け取るか。そこしか変えられない。

だから私は今目の前にある状況やあることを楽しむことにした。

今日は畑を作ることにした。

田舎で土地と土はいくらでもある。
自給自足はずっと前からの目標だ。そのための一歩をまた踏み出す。

義母のことも、面倒見てあげたらいいじゃないかと言う気持ちになった。

私にも子供たちにも愛情持って接してくれる義母だ。
何より夫の母親だ。

面倒見るのが普通と言われると、腹ただしいが、自ら進んで手を差し伸べる分には嫌な気はしない。

面倒ぐらい見てやれよと言われる前に、手を差し伸べようと思う。







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