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むかし、好きな人に言われたことば

むかし、好きだった人に
要領悪いところが好き
と言われたことかある。

自分がどんくさくて
他人が簡単にできることがうまくできなくて
論理的思考がなく
感覚でしかとらえられないがゆえに
自分は出来損ないだということを必死に隠そうとしながら生きていたときだった。(今思うと、その時生きづらかった原因は多いにHSS型HSPの性質に合った)

その頃私が属していた世界は、どんくさくいてはいけないところだった。

周りから責められたりはしないんだけれど、競争の場だったのでどんくさいは致命的だった。

いま思うと、頑張ってもそれは補える性質のものではなく結果に出てしまっていたから無駄なあがきだったけれど、高度に要領のいい人たちの中で競争していたので、ドベではあったけれど、後の社会生活では逆に、要領よくスマートに見せかけられるぐらいには鍛えられた。

ま、あくまでも見せかけなんで、一周回ってまた今、どんくさい自分と相対しているんだけれど。

で、冒頭のその人の言葉は、私を弱くさせる言葉だった。安心と幸せな気持ちを毛布のようにふわっとかけてくれた。

あの時、その毛布の暖かさを受け入れていたら、つまり、弱さを認めてどんくさい自分を受け入れていたら、もうちょっと早く楽になれていたんだろうか。

たらればを言っても仕方ないけれど。こうなるように決まっていたからこうなってるんだけれど。それはちょっと置いておいて。

よわい自分を受け入れることができていない時は、指摘されると怒りがわいたり、悲しくなったりするもの。

だから、あの時の「どんくさい」という指摘は、それをバレないようにしてるつもりだった私には結構なディスりワードだったはず。

でもそれが好きな人が好きと思ってくれるポイントだったから、優しい毛布に感じたわけで、人生を振り返って、早めにダメな自分を受け入れる大チャンスだったんだなと思う。

その人とはいろんな事情で付き合うこともなかった。そういうあたりもやはり、そこで私が楽になるシナリオではなかったってことなんでしょう。

ただ、いまこうしてフッと過去のことを思い出したからには、そういう優しいチャンスにこれからは気づいて生きたいなって思う。

強くあらねばって見せかけを磨いてたから、その弱くても愛されちゃうっていうことを受け入れるわけにいかなかった。

だから、その時、その言葉の大切さを無意識だけれど意図的に私はスルーしたんだ。

あの過去をあの言葉を思い出したということは、もうそういう毛布にガンガン甘えながら生きていいっていうことなんだと思う。

弱さとか見せかけだけじゃないことも。これを受け入れたら今まで積み上げてきたものがダメになるとか、ちゃんと生きる最後の砦なんだとか、いろんな細かなそういうことに対して、そこだめでいいんだよ、ということを認めるチャンス、負けるチャンスを拾っていっていいんだよ。

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