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願いが叶ったらその人は消滅するという原理

こんな風になりたい、なにかになりたい、そう思っている間は永遠にそうはならない。そしてそうなったとたん、そうなりたいと思っていた自分は消える。

これは考えていると鏡の中の鏡をのぞきこむような、ぐるぐるしてしまうことなのだけれど。

たとえば自分以外の人を観て、ああ、この人になりたい、と思ったとする。この人になりたいと思っている間は、この人と自分は別の存在だと認識しているということ。つまりその人にはなっていない。

もしその人になったのなら、もうその人自身なわけなので、別の存在としてその人を認識することはない。その人以外いないわけで、なりたいと思っていた自分はその人になったことで消滅する。

母親のお腹の中で私たちが、ああ、空気を吸う存在になりたいと思っているかどうかはわからないけれど、でも思っていたとして、生まれてきておぎゃあと泣いた瞬間、空気を吸うことはあたりまえの生き物になり、空気を吸う存在になりたいと思ってお腹の中にいた存在は消える。

実際にお腹に戻って空気を吸いなおすことや、他人の身体に乗り移ることは不可能もしくは難しいので、私たちにできるのは、こうなりたい、というものを、もうそうである、と感じるしかない。

よく重要なのは、なにをしたいか、何が欲しいか、ではなく、あり方だというのはここだと思う。

でも実際はそうじゃないのに、そうであると感じるなんてできないと感じるのがこの現実世界の私たち。

それもそう。私もまだそう思っている。それは、自分がほんとうはなんにでもなれ、どうにでもあれる。ありたいものそのものであるということを信じ切れていないから。

それが自我の見せる幻想のドラマだから。ありたいものそのものだと気づいた瞬間、自我が消える。自我としてこの世にとどまることができない。だから自我は私たちに「なりたい」という欲をあたえ、なれていないという「痛み」を感じさせ、夢をみさせ、ますますドラマに引っ張り込む。

夢がない状態が夢の叶った状態だ。

金メダリストになりたいという夢は、叶った瞬間、なりたいと思っていた存在は消える。もうなってしまったから。

とはいえ、こういうことをunderstandしてもrealizeしていないからknowだといえない。それが三次元の構造だから仕方ない。

そこの溝を超えるのをサポートしてくれるのが、真我という存在があるという知識や、ワンネスだったり、大いなる存在だったり、神だったり、引き寄せだったりするんだと思う。

どれでも、自分が納得しやすいものを選べばいい。

自分ではないパワフルな存在、すべてを包括する大いなる存在、それに任せることでありたい状態にあれるようになる、と考えてもいいし

自分はパワフルな源と同一なんだと気づくことで、もともとありたい状態であったと感じてもいい。

同じことだから。

たぶん、小さなことから練習するといいんだろう。たとえば、安心を感じている存在になりたいのなら、安心できることを常にみつけ安心すればいいのだ。

安心がない証拠を探すと、安心はどんどん自分とは別物としてその輪郭がくっきりしていく。安心がある証拠をさがせば、安心できるものがどんどんあたりまえなものに溶け込んで安心自体を忘れていく。真に安心している人は安心したいとは思わない。

豊かさも同じ。どんなに富を持っていても、豊かさが自分と別物だと認識している人はどこまでいっても豊かさを求め不安になる。豊かさそのものである人は豊かになろうとすら思わない。

愛そのものは愛を求めない。

人間になろうとする人間がいないのと同じだ。

さて、2022年の最後の日、なにでありたいか、なにを忘れたいのか、自分に問うてみるのもいいかもしれない。



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