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本当の自分であることを邪魔するもの

ずっと気分よく過ごす。これがわたしたちの本来の自然な姿。でもいつからなんだろう。ずっと気分よく過ごしていると
調子に乗るな
真面目にやれ
いつまでもふらふらするな
軽薄だ
遊んでないで仕事しろ
と責められたり叱られたりして、ずっと気分よくいることはいけないことなんだ、という生きるための考え方の土台ができてしまったのは。

なぜ、気分よくいてはいけないんだろう。それを誰も疑問に思わず、もっと遊びたいのに、もっと笑っていたいのに、もっと気楽でいたいのに、シリアスこそがよいことだ正しいことだと刷り込まれる。

だから、私たちの魂と一致した本来のあり方に戻るには、この土台から自由になる必要がある。


ところが深刻さや真面目さを礼賛する思考の枠はかなり手ごわくて、いい気分でいるぞと決めても思考は勝手に湧いてきて不安や心配や後悔や怖れを生む。

ほめられても喜べず、与えられても受け取れず、今の幸せを味わうことをせず未来の不安に身を投げる。そうしておけばシリアスでいられるから。

喜ばせたいのは誰なのか。自分なのか、顔のない誰かなのか。

だから、よい気分から出ないと覚悟しないととどまっていることはなかなかできない。思考が邪魔しに来たら、あ、思考がシリアスにひっぱっていこうとしているなと気づいて、それは思考だと思ってよい気分に戻る。

思考を滅するということではない。だって、思考って滅することはできないから。それは苦みを感じたくないからと舌をとってしまうのと同じ。苦みも感じないけれど、甘味も酸味も他のすべての味も失ってしまう。

思考は人体を安全に生存させるために必要だから備わっている。だから滅することはできないし、しようとしなくていい。

シリアスな思考にとらわれていると、気分は落ちる。それがサイン。気分が落ちたら、よい気分にただ戻る。バカみたいに。今ここで自分が享受しているすべてのものを味わって楽しんで感動する。

これは言葉では簡単だけれど、実際に継続してするのはなかなか難しい。だから相当な覚悟でよい気分をキープすると自分と約束しておかないといけない。

そんな能天気でいいのか、そんなバカになっていいのか、先々どうするんだ、などのシリアス思考が必ず押し寄せてくる。とても巧妙にとてもパワフルに。

それでもその思考たちに自分の気分を害させない。思考と気分を分離しておく。一度でできるようにはならない。

たとえば、私は何より幸せなダンスのレッスンに向かうとき、楽しみでうきうきして幸せ一杯なはずなのに、この幸せは続かないかもしれないという思考がわき出て、目を覚ませと警告してくる。

お金がなくなってら、身体を壊したら、もうダンスはできない。だからそれに備えて、ダンスにうつつをぬかしてないで、もっと真剣に考えて対処しないといけないよ、って。

でも、なんという矛盾!ダンスをするという幸せを得るためにダンスのことを考えたり、ダンスそのものをあきらめて失わないよう備えろって?!

もうこの段階でダンスの幸せを失ってるじゃない?

ギャグのようなこの矛盾に、私たちは気づかずはまり続け、今てにしている幸せを失わないために、今ある幸せを捨てようとする。

待て待て、これだ、この今てにしている幸せを味わうのだ。

気づいてウキウキに戻る。

なんどもなんどもこれを繰り返して、自分の気分を喜びにつなげ続ける。すると本来の自分でいる時間が長くなり、その自分が創造した現実を生きるようになる。

備える思考を繰り返せば、その思考が強化され、失いそうな現実が創造される。

幸せは創造してから味わうのではない。味わうことを後回しにしない。ダンスに向かう道がどしゃ降りだったとしても、幸せは全く損なわれない。


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