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ぽんこつすぎて人生が波乱万丈になっちゃっている人へ

タイトルがおかしいですが。「ぽんこつすぎて人生が波乱万丈になっちゃっている人へ」って、その人はわたくしなので。

まあ、同じタイプ!という方はあるあると思いながら読んでいただければ嬉しいです。

昨日は、私たちの感情が反応するのは身に降りかかる出来事に対してではなくそれについての思考に対してだと書きました。

でもなんか、本当に言いたかったことが書きながらどこかへ飛んでしまって、今朝それが戻ってきたので付け足します。

どんな人生を生きたいのか=どんな感情の状態でいたいのか、だと思います。ドラマチックな人生を生きたい=感情の上下が激しくいろいろな感情を味わいたいということだし、穏やかな人生を生きたい=感情の揺れがすくない、いつも気分があまり変わらずにいたい、ということになる。

どんな人生を生きたいかは、生まれてくるときにある程度デフォルトで設定されている気がする。そんな風に言うとスピっぽいけれど、性格と考えてもいいかな。

だから、ドラマチックな人生を生きたいという設定の人は感情が揺れるように舞台設定されているし、穏やかな人生を生きたい人は感情が揺れないような舞台設定になっている。

わたしは穏やかな人生だったことがほとんどなく、つねに感情が激しく揺れる日々。

出来事に一喜一憂し、不安でいっぱいになり、かと思うとびっくりするような幸運がやってきたりもする。

どうして穏やかな人生を送れないんだろう、これはなにかの罰なのか、なにかがどうしようもなく決定的に足りないのか、それともなにか選ばれたものの試練なのか。。。

また波が来た、もう溺れる、もうやめてくれ。

寸前のところで助けが入って、命拾い。なんてことの繰り返しをしている。

穏やかに生きたい。穏やかな人生を築ける人ってすごい。私はポンコツではみ出し者ででくのぼうだ。

ある時期、めちゃくちゃ穏やかな時期があった。結婚して見知らぬ土地に住み友人もおらず、仕事もしていなくて、社会的になにものでもなく、さらに妊娠して行動にも制限がかかったときだった。

退屈で死にそう。。。

そうなのだ。わたしは穏やかだと退屈なのだ。今なら穏やかさを感謝して味わえるだろうか。きっとだめだ。追い詰められてきっとドラマを作りに行ってしまう。

どーせ私の人生は穏やかじゃないのだ。それがずっと受け入れられず苦しかった。穏やかな素敵な人生にできない自分を責めて、罰を与える天をのろい、完璧にちかい人生を送れる術を教えてくれなかった親や学校をうらんだ。

でも、そういう設定じゃないらしい。

だったら、はみ出すことを楽しむしかない。おいおい、いったいどこまで行くんだ、と。

両親はたぶん、穏やかな人生の設定組だと思う。だから自分も、それができるものだと思っていたし、そこでの常識から外れるのは恥だと思っていた。

でも、外れるのが私のデフォルトなのだとしたら、逆の人生に自分の人生を収めようとするのは無駄な努力なわけで。

ジェットコースターに乗っているのに、車両のスピードをゆっくりにさせようとするのと同じ。ジェットコースターに乗っているなら、手を放して風に顔をなぶられながら悲鳴をあげるのが礼儀ってもの。

次はどんな上り下りが来るのか、どこまで下りどこまで登るのか、それを味わうしかないのだ。

ぜんぜん嬉しくないし、別に癒されもしない発見だけれど、穏やかな人生の常識、規範、そういうものを基準に自分を小さく見る必要はないんだな、という発見はhelpfulだ。もう生きるのがつらいよ、と思っていた人間にとってそれは、生きる世界が違っただけで罰でもないし自分が欠陥品というわけでもないと思える気づきとして。

両親の生きている穏やかな人生の基準からは劣等生だし、これからもっとタブーを生きるようになるのだろうけれど、こっちの世界ではこれが常識なんだよ。ジェットコースターはメリーゴーランドにはなれない。ただそれだけなんだ。

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