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死後の世界が楽とはかぎらない

生きているのが面倒くさい、と思うことがある。死にたいわけではないのだけれど、もがいても変わらない時間が長くて、もう気持ちを整えていくことに意欲が持てなくなる。生きることに対しポジティブに精神状態を戻すことが無意味に思えてしまう。

無気力に生きているわけでもない。仕事もしているし、新しいチャレンジにも意欲的だし、好きな趣味にも打ち込んでいる。それでもどこかそれらを、生にとどまるためにしているんだなと、他人事のように感じるもう一人の自分と同一化すると、ああ、面倒くさい、と思ってしまうのだ。

昨日、そんな話を友人にしたらその人が、死んだら面倒くささが消えるかどうかはわからないよね、と言われた。たしかにそうだ。死んだ先はもっと面倒な世界じゃないとは言い切れない。死んだことがないし、死んだ人に会ったこともないから、誰も知らない。

まあ、死にたいわけではないから、死んだ後を考えても面倒くささが消えるわけではないのだけれど。

こんなに面倒くさいことを、みんな楽し気に一生懸命にやっていてえらいなと思う。

こういう悩み相談をしている人をみかけた。そこに並ぶ回答がぜんぜんピンとがずれていて、本当にこれを感じた人でないと理解できないんだろうなと思った。一番寄り添って発言している人でも、自殺願望の人にかけるような言葉でとても真摯で優しい気持ちなのだけれど、わかってはいないなと感じた。

落ち込んでいるということでもないし、世をはなかんでいるわけでもない。悩むとか落ち込むとかすら、一生懸命やることに思える。落ち込むことすら面倒だなと思ってしまう。

ついこの前まで最高の夢だったことも、たとえ実現したとして、それがどうだというのだろう、と思ってしまう。

死にたいのではない。食べるのが面倒くさいに似ているかもしれない。食べることが面倒くさいからといって、食べることをやめるわけではない。お腹は減るから食べはする。おいしければおいしいと思う。でもそこに夢中になるほどの感動がないのかもしれない。

生きることに没頭できるような感動が。

こんな状態もいつもではないから、落ち込んだり、悩んだり、楽しんだりする自分でいるときは今まで通りそれらに巻き込まれるように生きていられるのだけれど、魂が抜けだすように俯瞰してしまうと、そういうことを面倒だなと思ってしまうことがあるのだ。

あまり好きではない表現なのだけれど、ひょっとするとこれがスターシード感覚なのかもしれない。

自我と真我のことを知識としてだけ入れて、真に理解していない宙ぶらりんの状態にいることによる感覚なのかもしれない。

生きることを楽しむ着ぐるみに戻らないと。ああ、めんどうくさい。

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