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受け取ることを避けるために探し続けてしまうというループから出るために

なにかを探しているんだけれど、なにを探しているのかわかっていない。

見つけなければ、とすごく焦っている。それさえ見つければ、あらゆる苦しみから解放されて、安心して呼吸しながら生きることができる。

探しているのはそうできる場なのか、そこに行くための方法なのか、必要な鍵なのか、わからない。でも見つければ探していたのはこれだったとわかると感じている。

ずーっとずーっとこの探し物をしてきた。最近、たぶん、この探し物はまがいものだと思うようになった。

探しているのは、今すぐ受け取ることを避けている。今すぐ受け取れるのに、それをするには今のなにかを変えたり、なにか行動をしたり、手放したりしないといけないと思っていて、それがどうにもめんどうくさいのだ。

さらに、変えたりなんだりも本当はたぶん、しないでいいのだ。

でも、探し物をしないでいい状態が、想像がおよばないぐらい今からの大きな変化だから、そんなに簡単に手に入るはずがないと思っているのだ。思ってしまっているのだ、というのもわかる。でも思ってしまう。

たぶん、誰もがそうだ。だから、実感しやすくするために、行動をしましょうとか、手放しましょう、とかがあるのだ。先に進んでいる人や知恵をもらっている人が、そう言って導くのは、たぶんそうだからだ。

変わりたければ行動しなさい。手放しなさい。自分を癒しなさい。

思考というのはずるがしこく、この教えに出会ったとたん、「どうやって?」というなぞなぞをすぐに出してくる。

手放せばいいのかあ~と理解感覚を得られそうになる直前で、「そうなるには方法が必要だ。方法を探しにいかなくては」という新たな苦を負わせるのだ。

その思考になびいて、真我との統合から遠のいてしまうのだ。

苦は、真我との統合のチャンスだ。探し物をしはじめるから。でも、探し出すうちに出会うのだ、探し物は不要だという知恵に。でも出会いはほんの一瞬で、思考がすぐに間にわってはいってくる。探し物のドラマ、苦から出るドラマを続けさせ、自我を存続させるために。

探し物を続けて混沌にある人は、深呼吸して少し身の周りを見回してみる。部屋の床とか、PCのデスクトップとか、机の引き出しとか、クローゼットとか、わけのわからないものがたくさん散乱していたら、それが探し物がわからなくなっている表れかもしれない。

散乱を整理すると、下からあらわれたすっきりした面や空間そのものが探していたものだったと気づくかもしれない。

パイプがつまって水が来ないと嘆いているときも、実は水が欲しいのではなく、つまりがなく水がきれいに出ていく状態を欲しているのかもしれない。

整理するか、あるいはつまりを押し流すほどに圧倒的な水量で流してしまう方法もある。どちらも、水がたくさん来ることよりも、すっきりつまりがないことに快感があるような気がする。

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