道具を愛するように他人を愛する
山登りをしている人の目的は、同じに見えるけれどぜんぜんちがう。
ある人は頂上の制覇で、そこからの景色を見ることが目的かもしれない。
でもある人は登っていく途中の景色が楽しみかもしれない。
ある人は、山登りを一緒にする仲間と時間を過ごすこと自体かもしれない。
ある人は登山のとちゅうで食べるごはんが格別おいしいからかもしれない。
頂上の制覇を目指す人は、はやく到着して次の山に向かいたいと思うから、途中の景色を楽しむためにゆっくり歩いたり、仲間との山とは関係のない会話なんかは時間とエネルギーの無駄に感じる。ごはんなんか食べてないで一気に登ろうぜ、って思うかもしれない。
でも、どの人もそれぞれ自分の登山を真剣にやっているにすぎない。どのやり方が正しいなんてない。その人にとっては時間やエネルギーの無駄ではない。
登山にかぎらず、一人でできるものなら自分のやり方ですればいいけれど、チームでないと実現できないものは、それぞれの向き合い方を否定してしまうとチームが成立しない。
目的達成のためにチームにいる人と、チームで活動すること自体が目的の人とでは、その場でとる行動が全然違ってしまうのは当然。
チームでいること自体が目的の人は、チーム内のコミュニケーションを重視し、目的とは無関係の雑談をしてくるかもしれない。目的至上の人にとっては、それが時間とエネルギーの無駄に感じるかもしれない。そんな雑談ばかりしている人にも、雑談の内容にも興味がないからやめてほしいと思う。コミュニケーション重視の人は、この人はどうしてこんなに和を乱すのだろうと思うかもしれない。
でもどちらにとっても相手は、自分の望みをかなえるために必要な大切な存在なのだ。興味がもてない、理解したくない存在ではなく、大切にケアすべき存在なのだ。
よくプロは道具を大切にして手入れを怠らないという。たとえば野球選手なら自分のグローブやシューズを常にきちんと手入れするはず。こういう人はおそらく一緒にプレイするチームのメンバーも大切にしていると思う。大切にするということをどう行動するかは人によってそれぞれだから、なにをすることが大切にすること、とは言えないけれど、大切に思っていることは違いないはず。彼らはいわば、思う通りに野球を楽しむための道具と同じだからだ。なくてはならない存在だ。
大切な存在だから、目的至上主義の人は無理して雑談に加われとか、コミュニケーション重視の人に雑談をやめろとかということではない。
相手を大切な存在だと思う気持ちがあれば、雑談に加わらなくてもそれは自然と現れる。
目的にむかってストイックに努力する姿はむしろ、和を乱す人ではなく成長の希望を見せてくれる憧れの存在になるかもしれない。話しかけにくかったり厳しかったりしても、胸の奥にある愛を人はキャッチする。
同じことに携わっていても、目的や理由は違う。人をコントロールすることはできない。違う理由で一緒に山を登る人を、自分がどう見るかは変えることはできる。
今日の自分と再会するセッションではこんな話になりました。
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