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龍や天使は存在しないから

龍や天使などは、神的な存在、霊的なエネルギーにたいし、人間が便宜的につけた名前でしかありません。

あらゆるものはひとつづきの同一の存在であるなら、私たち人間とも神や宇宙といった大いなる存在とも分離して存在する、龍や天使というものがあろうはずがない。

たしかにいると感じている人たちが嘘をいっているということではありません。人にいろいろな側面があるように、エネルギーのひとつの側面、特徴を強く察知しやすい人はそれを龍と感じたり、天使として認識します。

だから、そうしたものを感じ取れないからといって霊的に劣っているわけでもないし、感じ取れるから存在が高位にあるということでもありません。

たとえば豊かさと貧しさは両極の感覚ではありますが、一つの同じものを現す表現です。豊かさは貧しさの延長線上にあり、逆もまたそうです。

長い短いもそうです。「長さ」というひとつのものに対する主観的感想が長い短いです。

人間と大いなる存在も同じ。同じものの中の主観のちがいで存在のしかたが異なるだけ。長いと短いや、豊かと貧しいのように一本のライン上の2点のようなもの。そうであるなら、天使や龍といったものもこのライン上にあるはずです。実際はこの「ライン」は立体なのでもうちょっと複雑なイメージですが、理論的にはそうなります。

人間である自分を強く感じられる人は龍や天使が見える人より劣っているわけではないのです。長い方が短いより優れているなんてことがないのと同じ。

人間という地に近い側面でひとつの同じエネルギーをしっかりとらえている人は龍や天使という空に近いエネルギーを感じにくいかもしれません。竜や天使としてとらえることが得意な人は地上の実態をもったエネルギーが苦手だったりします。上がえらくて下は劣る、そんな優劣はありません。

ただ、どちらかを強く感じる人は反対も感じやすいという特徴はある気がします。それはなぜかというと、エネルギーってこういう感じ、が体感としてあるので、地か空かは関係なくキャッチしやすいのでしょう。舌が敏感な人は甘いも辛いも細かくわかるのと同じです。

どんな風にどのぐらいの強度や明確さでとらえるかは人それぞれ。捉えやすいイメージ、キャッチしやすい側面、それぞれが備えているものをありがたく使えばよくて、他人が使っているアンテナを自分が持っていないことで相手を崇めることは、自分が持って体現しているエネルギーの側面をさげすむことになります。

どちらも対等、同じものです。

自分にないものを持っている人を崇めて自分の力をないものとしてかえりみないよりは、自分の神聖さに気づき、認め、受け入れることのほうが、龍や天使をみようとするよりは望む境地にずっと早く到達できます。

もし龍や天使のことばが必要なら、必ずもたらされます。それは龍の方があなたを呼んだからではなく、あなたの神性がそう設定しそのイメージを使うから。

本当は龍も天使も外側に存在するものの力を借りる必要はないのです。だって、それらもやはり、自分の一部だから。

龍神や天使や○○の神様といったものを崇めさせ、拝ませ、あなたより優れたもの、尊いものとして話す占い師やスピリチュアルなマスターはニセモノです。だって、あなたの中にあるものをあたかも分離して存在しているかのように話しているということだし、それが見える存在だと自分を主張することで、自分をそれらの存在の威を借りて大きく見せているということだからです。

私は龍神だと言われた、自分は○○天使の使いだと言われた、マリアさまの生まれ変わりだと言われた。そうです、もちろんです。そしてそれはあなたの隣の人もそうだし、私もそうなのです。

なにかを自分より上に見て崇めたくなったら、自分の神性を認めていないという現れです。そのなにかが持っている神聖さはあなたのものなのです。

それが分かったうえで、龍的なエネルギーや天使的なエネルギーを畏敬するのはかまいません。自分の神性を畏敬することだからです。参拝は自分の神性を認識して讃えることです。

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