見出し画像

孤独でお腹がすく

きのうは一日食欲がとまらず、ずっと何か食べていた。

食べても食べても満たされず。やらなくてはいけないことも、空腹感で気がそがれ、集中して取り組めない。

これは本当に欲しているのは栄養じゃないなって気づいた

寂しさ、孤独。人の存在を渇望している。カオナシ現象だ。

一人で好きなようにしている生活スタイルは好きだ。手放すことはできない。けれど、どうしようもなく孤独を感じることがある。人生のあらゆる活動は孤独を感じないためにやっている気すらする。

心の学びも、ライフワークも、趣味も。それに没頭している時間は孤独を忘れる。でも家に帰ってくるとまた一人で、またそれを感じないために、アマゾンプライムやらyoutubeやらで頭を占領させる。

そんなことを考えていたら、離れたところに住んでいる娘からラインが来ていた。すごいな、宇宙。対応が素早いことと言ったら。いやいや、ほんとありがとう。

実家に住んでいた時や結婚していた時は、濃密な人間関係が悩みだったのに。

孤独を感じるかどうかは物理的にひとりかどうかは関係ない。誰かと一緒でも分離していれば孤独。

こうやって孤独にさいなまれるときは、本当は自分が自分とつながっていないというあらわれだ。他のことに逃げずに、この孤独を感じ深く入っていくことを自分が必要としている。

でも、手っ取り早く孤独感を片づけたいって思っちゃうから、アマプラやらドラマやらに頭を明け渡す。他人のドラマで自分の渇望を満たそうとする。

そうすればするほど、喉は乾くのに。塩水を飲んで乾きをいやそうとするようなものだ。

みんなそういうものなのだ。どんなに悟ったように見える人も、どんなに大人に見える人も、地球に生まれてきた人は孤独という枷につながれている。それから自由になるには、分離を知り、本当はひとつであることに降参するしかないのだ。

でもそれを自我はなかなか許さない。分離した単体である自我は分離しているから存在できる。ひとつであることに降参したら、自我は存在できない。消えそうになると自我があがき、孤独感が高まる。

孤独を癒してくれるものを渇望させ、心地よく満たしてくれるものに執着させる。この感情の上下のドラマこそが自分の人生だと思わされる。

ドラマから出ようとしても出ることはできない。だから、そういうものだと知り、それをやっているんだなと俯瞰して感じ、その渇望の嵐が流れていく様を眺めるしかない。ああ、またやっているなと。批判するでもなく、拒否するでもなく、没入するでもなく。

人生では何度もなんどもそれを繰り返す。次第に、浸る時間が短くなってはきている。そうなっていくプロセスにあって、前より至福かというとそういうわけでもない。でも、孤独に気づいたのはよかった。気づかず飢え、乾き、没入するよりはよい。孤独に気づく前が一番苦しかった。孤独に降参するまでが。

ひょっとすると、勘違いしていたのかもしれないと思うこと。それは自我にとらわれないことで至る平安というのは、大きな喜びを伴うわけではないってこと。平安は平らかで安らかであることなので、苦もないかわりに楽もないのだ。なにもないのが平安。覚醒した人がいく平安という境地は、喜びのベルが鳴り続けるような歓喜ではないのではないか。一喜一憂しない。何も起こらない。ただ平らかで安らか。

だからこそ私たちは身体をもつことで分離し、一喜一憂をしに生まれてきたきたのだとすれば、皮肉なものだ。ひとりノリ突っ込みみたいなことをやっている。

生まれたとたん、やすらかで変わったことのない平安を渇望する。平安でない状態を味わいに来たというのに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?