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無敵になりたいわけじゃない、多分

小学三年生の息子が「歌ってみた」にハマっている。Youtuberがボカロの曲を歌っている動画を観て知ったようだ。

もちろん、息子が「歌ってみた」の動画をあげているわけではない。我が家ではゲームは一日一時間と決めていて、その中でならYoutubeを観てもいいことにしているので、動画を繰り返し観て、巻き戻し観て、自由帳に歌詞を書き、覚えて歌っているのだ。

その姿を見て私も同じような事をしていたな、と懐かしく思う。カセットデッキの巻き戻しを押し、再生を繰り返し、大学ノートに歌詞を綴った。時々間違えたりして。いつも退屈だと喚いている息子が何かに熱中しているのがとても嬉しい。ボカロはよく知らないけど、生き生きしている彼を見て微笑ましく思っていた。

数日後、中学一年の兄が友達とオンラインゲームをしていた時のこと。ボイスチャットの友達の声が丸聞こえで、そのうちの一人の歌が聞こえた。ゲームをしながらご機嫌に歌っている。が、その曲が小三息子が夢中になっているボカロの曲だった。お世辞にも上手ではなかったが、とても気持ち良さそうに歌っていた。

私は「へー、人気あるんやね」くらいにしか思わなかったのだが、小三息子にとって自分の宝物にケチがついた気分になったのだろう。あからさまに怒ったりはしなかったが、急に黙って不機嫌になった。

それ以来、息子はその歌を歌わなくなった。自由帳を開かなくなった。
宝物は、たとえ同じものを誰がが持っていたとしても宝物なんだよ、と言おうとしたがやめた。そんなこと言ったって今の彼には慰めにもならない。何か次の宝物を見つけられるまでそっと見守る事にした。私に似てプライドが高い。

そして中一の兄の話。

ある日の昼下がり、中学校の先生から電話がかかってきた。息子が喧嘩をしたという。
体育の着替えの時に、あるクラスメイトが息子のパンツがダサいとしつこく言ったらしく、そして息子が手を出した。相手も手を出した。(パンツはボクサーパンツでダサくはない。)

先生曰く「〇〇君は(息子)は悪くないんです」らしい。いや、そんなことないやろ、と思いつつ話を詳しく聞くとクラスメイトは前から事あるごとに息子を揶揄い、嫌がらせをしていたらしい。そしてついに息子が我慢の限界を越えたのか、手を出した。しかし、擦った程度か届かなかったかはわからないが、へなちょこ過ぎてケガはなかった。相手のパンチの方がきつかった。ので先生は悪くないと言ったのかもしれない。悪くない?悪いって何だろう。

その後、話し合いになり双方が謝り、解決したとのことだった。先生が上手く仲裁してくれたのだと思う。なので一応報告、みたいな電話だった。

息子は小さな頃からよく揶揄われた。小学校の低学年の時なんかは強い女子の言いなりで、男子には揶揄われ、口で反撃はするが結局泣いて帰ってきた。毎日の「ただいま」のニュアンスで何かあったとすぐにわかった。
体も小さく、幼い雰囲気の息子は今だ小学生と間違えられる。ここ2、3年は仲良くなった友達に恵まれ、息子も自分の辛い話はしないようにしていたのだろう、このような事を聞かなくなってきたのですっかり私の緊張感は無くなっていた。よくよく見ればどこかで違和感は無かったのか?わからない。

これが昨今よくニュースで見聞きする「いじめられた子がいじめた子を殺める」ことの始まりだと思う。我が子にも可能性がある。
嫌な事をされても溜め込まない。暴力以外の反論や、私や父親、私では役不足なら誰でもいい。誰かに話して欲しい。取り返しのつかない事になる前に。

帰ってきた息子と話した時、自分から手が出た事は良くなかったと自分から言い出したので、「疲れたなあ、嫌やったなあ」と私が言うと「一番嫌やったのは周りの奴等が『可哀想やろ、やめたれや』って笑ってたことや」とそう言いながら、言葉に詰まって静かに泣いた。

そっか、と言って私も悲しくなった。どう返したらいいか少し考えて、
「みんな、誰かを笑うことで自分の劣等感を誤魔化してるねんな」「でも、あなたは笑われるような事はしてないし、可哀想でもないんやで」と言った。最も良い言葉が見つからない。
「腹が立って見返してやるって思っていいし、しょうもないなってスルーしてもいい、でもあなたは笑われる事は何も無いし、可哀想でもない」と言った。大事な事だから2回言った。どんどんドツボにハマりそうなのでそこで口を閉じた。
こんな事はきっと大人になるまで何度もあるのだろう。そんな時に支えになるような言葉。それを伝えたいのに。

大人ですらマウンティングという言葉があるように、人と比べて自分の価値を位置づけようとする。SNSの表面下では自己顕示欲が溢れてる。でもそれは悪いことばかりじゃないし、私だって例外ではない。誰かと順位を争うような人間関係がないからわかりにくいけど、「私は充たされている」と装うし、「より充たされたい」と新しい服を買い、髪を整え、美味しいものを探す。それで気分が上がるのならいいやん。と思う。誰かを見下したいのではなく、楽しく生きてるよ、というマウンティング。

いや、違うな。それは我が家の息子達のマウントと比較の対象ではない。それではお金があれば何とでもなるので金持ちが頂点になってしまう。そうではなくて、子供である彼等にとっては自分が如何に凄い奴か、と思えることが大事なのだ。

自己肯定感。よく育児で使われる言葉。親は褒めて育てよ、というがそんな単純なものではない。
もちろん子供を貶して育てるなんて論外だけど、褒めればいいかというとそうじゃない。子供達は自分の事をよくわかっている。

私が小学生二年生の時、クラスで逆上がり(鉄棒)ができないのが私だけだった。運動全般苦手だったけどクラスで一人だけ、というのが余程悔しかったのか、放課後一人で毎日練習した。途中から母も見守った。マメができてマメが剥けて、ようやく逆上がりができるようになった。その成功体験が私を調子に乗らせた。これぞ自己肯定感!と思う反面、今は危険だと思っている。私はプライドが高く、何でも頑張ったらできるようになるという、根拠のない自信を持ってしまったのだ。
勿論、謙虚な振舞いをしつつ生きてきたが、したたかにその気持ちを持って行動していたらその結果、自分の望みを叶えることになった。隠していた傲慢さに気づかれ、人を離すことにもなった。

そしてその望みを叶えて満足した私は次の望みの結婚と出産を叶える。なんて傲慢な人生!その報いはその後、人生最大の挫折を味わう事で受ける。自分には無理な事があると知った。挫折して良かった。挫折していなければ子供達にも「頑張ればできる」みたいなことを強いてしまったかもしれない。

閑話休題。時を戻そう。

息子達は別に無敵になりたいわけじゃない。(多分)
全世界の頂点に立つとかではなくて、ただ、気分良く過ごしたいだけなんだ。きっとマウントとる人もビッグになりたい野望があるというよりは、気分良くいたいだけなんだ。だけどなんか満たされなくて、精神的に幼いと自分を満たす方法が見つからなくて人を攻撃する事で満たそうとしてしまう。

そんな子供達に私ができる事は何だろう。

最近、「ミステリという勿れ」というドラマが始まって、久しぶりにコミックを読み返してみたら7巻にこんな事が書いてあった。
大人になって息子が優しくなってきた、という話の流れから、

「子供の頃は 親に期待しすぎるんですよ」
「親は 親という生き物で ちゃんとした親であるべき あってほしい それが当たり前だと」
「でも自分が年とってきて思いますけど たいして変わんねーのな 成長とかしないしない」
「親も不完全な一人の人間だったんだと 息子さん それがわかってきたんじゃないですか」

うわー刺さる、その通り!そうやねん。不完全やねん。でも息子が苦しんでる時に開き直って何もできないのは嫌だ。対等に、考えて、どうしたらいいのか、何を伝えたいのか。向き合っていくしかない。現時点、そんな感じ。いいのか、これで?


この歳になると、自分の老後や死ぬ事を意識して物事に挑むので、人と比べて、とか正直そんな余裕もない。誰かに嫉妬したりする事が今後あるのだろうか?若さや美貌に?介護の大変さで?子や夫の出世を自慢したい?…実感ない。だって自分の力でどうにかできるもんじゃないしね。

限りある時間の中で一人か若しくは心許せる人と楽しいと思える事を模索する。それが私のマウンティングだ。

同時にプライド高い我が家の息子達が気分良く過ごせるように、人を咎めず自信を持って生きていける術を一緒に模索する。それはきっと大変な事じゃない。そばにいることが大事なのだ。

…と自分に言い聞かす。
本当はこれからどうなって行くのか心配だよー(ここでは弱音吐いてしまう…)