見出し画像

涙とユーミンと青い影

プルコルパルムの青い影が好きだ。日産のCMで前奏が流れていたのを聴いた時、胸の奥が締め付けられた。あれはいつのことだっけ。

今思えば黒歴史のような中学時代だった。
学級委員で、まあまあ良い成績で、斉藤由貴さんやおニャン子クラブの高井麻巳子さんの真似をしていたからそこそこモテて調子に乗っていた。だけど、保健室通いの日々だった。いじめというには大袈裟な視線や聞こえよがし。名ばかりのバスケ部の彼氏。学級委員がトイレに集う派手なクラスメイトを教室に戻さないといけないという任務。
保健室に逃げた私は、担任でもない、男子専門の教科の技術の小太りの山本先生にフォークを教わる。保健室で。

山本先生と話したことは殆ど覚えていない。養護の北村先生は色々話を聞いてくれた記憶があるけど、山本先生はフォークギター片手に色んな曲を弾いてくれた。
そこで知ったのがユーミンだった。

山本先生は岬めぐり、心の旅、万里の河、いちご白書をもう一度、神田川、その他沢山聴かせてくれた。記憶が曖昧だけど、初めてギターを弾いたのがその頃だった気がする。軽く教えてもらったのだ。いちご白書をもう一度はバンバンの曲だったが、ユーミンの作詞作曲で、大好きだった。

その後、ユーミンをずっと聴いていた記憶はあるのだけれど、媒体はカセットだった。CDはまだなかった時代。家にはレコードプレイヤーしかなく、録音機能はなかった。どうやって録音したのか…そのカセットの曲順を覚えているので過去のアルバムを検索してみたが見当たらないので、誰かが編集したマイベストを貰ったのかもしれない。

6つ歳上の隣のお姉さんからクラッシックギターをもらう機会があって、ひこうき雲を練習した。難しくてすぐに断念した。母が好きだったカーペンターズのイエスタデイ・ワンスモアと井上陽水さんの夢の中へは、いわゆる耳コピで簡単なコードにしたら下手クソなりに弾けたので、それだけ弾いていた。

またいつか他で書くかもしれないが、幼稚園の頃からヤマハ音楽教室に行き、エレクトーンをガッツリ、ピアノは少しかじっていたのでユーミンは鍵盤で毎日のように弾いていた。恥ずかしい話だが歌付きで。ベルベット・イースターとか、あの日にかえりたいとか云々。

余談だが、エレクトーンでユーミンの翳りゆく部屋を歌いながら弾いていたら、自分の中で盛り上がってしまい、涙してしまった事があり、それを目撃した親が心配した。何を勘違いしたか、親まで泣いていた。なんだか申し訳ない。別に悲しかったわけではなくて、翳りゆく部屋とひこうき雲は今でも口ずさむだけで泣いてしまうのだ。

人は音楽を聴いて泣いたりするのは、その時の気分や今までの人生、想像力と感受性によっての事だと思うのだけど、私にとってのユーミンの翳りゆく部屋とひこうき雲はそれらを超越している。ただ、泣いてしまう。何が何でも涙する。偉大な音楽の力よ。

逆に、今までそんなに気に留めて無かった曲が急に刺さってきたり、何度も聴いているうちに手放せないほどのお気に入りになる事がある…というのもよく耳にするが、私はまだ経験がない。直感でこれっ!と思うことばかり。本ではよくあるんだけど。音楽でそんな経験もしてみたいものだ。

というわけで、ユーミンは私の青春の象徴なのだ。青春のリグレット。いや、後悔はしていない。敢えて引用するなら青い影。今の私がある大切な時間と音楽。山本先生と北村先生には今も感謝している。

そして今も私は下手クソなギターでひこうき雲を弾き、拙い鍵盤と共に翳りゆく部屋を歌う。一人の時。そしてやっぱり涙しちゃうのだ。きっとこれから年老いていっても、幾度となく涙するのだ。偉大な音楽の力よ。


おまけ。
今年のお盆の頃、雨が続いていた時に雨のプレイリストなるものを作っていたのだけれど、その中の「雨音はショパンの調べ」もいう曲、こちらはイタリアのガゼボさんの「I Like Chopin」のカバーなのだけれど、「私の好きなショパン」を「雨音はショパンの調べ」と翻訳したのがユーミンだと知った時はほんと、脱帽だった。(脱帽という言い方も烏滸がましい…尊すぎる。)