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日本文化が見える翻訳の仕事

MATCHAインドネシア語版の翻訳者、カティアさんとの英会話をまとめていくシリーズ、異文化コラム。

今回は、「インドネシア語→日本語への翻訳時に苦労すること」について話しました。

カティアさん:「日本語の文章は修飾語が多く、読んでいるうちに何を言っている文章なのかわからなくなってしまう人が多いです。主語が書かれないときはなおさら。誰が何をしたのか、その文章で書かれていることは何かをつかむことが重要になります」

動詞が最後に来ているので、文章のオチが最後までわからないことも難易度が高いことのひとつだとカティアさんは言います。

修飾語の多さについては、文章によって改善の余地がありそう。あまり多くかさねすぎないように、どこにかかっているのかわかるように書くことが一般的に「わかりやすい文章」とされているからです。

けれど動詞が最後にくるのは構造上避けられない。日本語は、最後まで結末のわからない、スリリングな言語なのかもしれません。

また、言葉の意味が広い点でも翻訳が難しいとカティアさん。

カティアさん:「“一発芸”という言葉には、ギャグや漫才、ダンスなどさまざまな要素が入っています。しかしインドネシア語にはそれに相当する単語がないので、“一発芸”の中身を確認し、そのコンテンツに合った単語を使うんです。“すべる”も同じですね。芸人さんのネタが笑えなかったときにも日本語では使いますが、インドネシアでは使いません。

言葉がもつ意味の違いは、その言葉をもつ種族の文化の違いともいえます。例えば日本は、「雨」に関する語彙がとても豊富にある(五月雨、にわか雨、お天気雨…)。それは自然や雨が日本人にとって身近な存在だったことを表していることにもなるそう。なぜなら自分のよく知るものについては、細部の違いもはっきり見えるようになるから。

動物に興味のない人が犬に出会っても「犬」としか認識しないけれど、犬好きや犬を飼っている人が見ると「プードル」とか、「コーギー」とか、犬の種類で認識するのと同じ原理でしょう。

日本人は、“他人に対するパフォーマンス”について、あまり細部まで認識していなかったのかも。または、なんとなく共通の認識さえあれば良いものだと考え、抽象的なことばを当てておいたのかも。

翻訳するとどんな言葉で綴られるのか。そこに日本文化を知る鍵があるような気がします。

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