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何か見つけたらラッキー、みたいなスタンスでいく -3泊4日の参禅修行③

「座禅をして何かを得ようと意気込んでも、それでは欲が深まるばかり。無欲に禅を組むなかで、何かが芽生えたならそういうこと。欲をもって禅をしても何も意味がない」

私を含め、3泊4日頑張れば何か変わるんじゃないか……と思って参加している人がほとんどのはずなのに、こんなハシゴを外すようなこと言わないで……!なんて、講話の時間にその話を聞き、「無欲であること」を求める仏教の世界で、生きてるうちに悟りを開くのは不可能に近いことだと実感した。

お坊さんは、「ありのままを受け止めること。自分の嫌な部分、ドロドロの部分をみつめ、認めることが修行」という話もしていた。助けてほしいとか、変えてほしいとかじゃなくて、今の状態を受け止めること。

3日目のスケジュール
 3:50 起床
 4:20 座禅
 5:00 朝のお勤め(読経)
 6:45 朝食
 8:00 掃除、ストレッチ
 9:10 座禅
11:00 昼食
12:40 お寺の見学やお坊さんとの茶話会
16:00 入浴
17:25 夕食
18:00 永平寺の説明ムービー
19:00 座禅
21:00 就寝

3日目の午後は修行がいったんお休み。修行僧に永平寺を案内してもらったり、お茶と和菓子を食べながら、お坊さんへの質問タイムが設けられたりした。この時だけは、1度電子機器も返却されるが、今スマホを見たところで仕事の連絡に返せるわけじゃないしなぁとあえて電源は入れなかった。

質問タイムでは、禅に対する一般的な質問から、「会社にいるとどうしても怒りっぽくなってしまって、それを直したい」なんていう至極個人的なものまでさまざま。けれどどんな質問にもふむふむ、と納得するような返答をするお坊さん。

「怒ってしまうことに気づいて、それを直すために行動しているだけで、それ以上思い悩んだりすることはないですよ。悩むのは、目的地に向かって走る電車の中で、“早く到着しなくちゃ”なんて走っているだけ。落ち着いて乗っていれば、必ず到着するんです」

続けて、「すべては縁でより合わさっている」とも言う。

「"あなたを指さしてください"と言ったときに指させるものは、自分の“胸”だったり、”目”だったり、”鼻”だったり。それは“あなた”ではなくて、あなたを作っている物質ですよね。あなたは色々なものが集まってできた集合体なだけであって、“あなた”という確固たるものはどこからどこまでなのかわからない。あなたの周りにあるさまざまな縁で生かされているのです。」

以前、私に向いていることって何だろう、と思った時に、「存在しておくこと」と言われたことがあった。向いていることが無いから言われたのか……など、その時はいろいろ思いを巡らせたけれど、お坊さんの話を聞いて、「存在しておくこと」って実は結構大事なのかも? と思うようになった。

個性を出そう、力を発揮しよう、と無理に意気込む必要はたぶんないのかもしれない。今、神田のスタバで窓に向かってキーボードを打つ私は、そこに存在するだけで、隣のサラリーマンを作る“何か”になれているのかも。

「無欲で座禅して、なにか芽生えたらラッキーだよね」と同じように、できること1つづつやっていってもし向いてることが見つかったらラッキー、くらいに思っていてもいいのかもしれないなぁと、3日目夜の最後の座禅で考えた。やっぱり座禅中は色々考えてしまうけれど、なんだかもうこれでいいような気がしている。

4日目は3日目と同じスケジュールで掃除まで行い、荷物をまとめ解散。長いようであっという間の3泊4日だった。

電子機器を触らなかった3日間がまるで嘘のように、1日15時間はパソコンかスマホの画面を見る日々が戻った。「何か変わった?」と聞かれても、特に大きな変化はない。けれど頭の中で考えた、今までに対する疑問と違和感が心にのこって、なんだかちょっと世界が変わったような気がする。

それは全く新しい見方ではないけれど、いつもよりも30度ぐらいずれた位置からの、ものの見方になっているのかもしれないなぁと思う。

#毎日note


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