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“男友達”の定義

江國香織さんのエッセイ「泣く大人」にある、『男友達の部屋』という章がすごく好きだ。江國さんの周りにいる男友達との話が紹介されていて、どれもすごく特別で、羨ましくなってしまう関係だった。

本の中で江國さんは、「男友達と恋人とは似ている」という。そして、恋人との違うのは「同じ時代を生きるということ」。恋人の場合は、“輝くばかりに甘美な途方もなく特別な、人生も世界もどうなろうと知ったことじゃない、という一瞬の真実が大事”であるけれど、男友達は、一緒に仕事ができたり、おじいちゃん、おばあちゃんになっても同じ目線で物事を見れたりといったことがあるという。確かにその例で言うと、男友達と恋人はすごく似ていそうだ。

小さい頃の影響もあるからなのか、私の男友達は多い方だった。夜ご飯のあとに井之頭公園を散歩したり、「らくだが見たい」といったら野毛山動物公園に連れて行ってくれたり。仲良くなると、男友達でも「ご飯」以外で遊ぶこともあった。江國さんみたいに、私にとっての“男友達”ってどんな人なのかな、と考えると、こんなことが浮かんだ。

ひとつは、信頼しあっていること。もうひとつは、自然と自分のことを話してしまうこと。誰かに嫌われることを極端に恐れる傾向のある私は、「この人なら簡単に私のことを嫌いにならないな」という安心感が無いと、自分のことを話せなくなる。元々そんなによくしゃべる方ではないが、こちらから聞くばっかりだとやっぱり疲れてしまうので、自分が自然とおしゃべりになれる人、言っても嫌がられないと安心できる人が男友達だ。

では恋人は、というと一気に重苦しい女になってしまう。誰かとお付き合いを始めること、言い換えると「この人と付き合っています、と宣言すること」にハードルの高さを感じる。どう頑張っても自分1人では飛び越えることができないくらい、高く立ちはだかっている。そしてもちろん、男友達に挙げられた内容は満たしていることが前提だ。そのうえで、「〇〇の彼女」として恥じない行為、果たさなければいけない責任が課されるような気がして、二の足を踏んでしまうのだ。それが越えられるような勢いだったり、ジャンプ台だったりが用意できない事には、なんとも難しい。

江國さんは「一緒に物事をみること」、私は「お互い見つめあうこと」に焦点をあてた定義だったなと思い、これも興味深い。“男友達”の定義といっても本当に個々それぞれだ。私の定義で男友達と思っていた人も、相手からしたらそうじゃない場合もあるし、相手にとって女友達でも、私がそれについていけないこともある。わかりづらいから悩むし、めんどくさい駆け引きだって始まってしまう。そして解決できないと、「相手のことがわからない」と迷宮入りになるのだ。

「定義がスパっときまっていて、単純明快だったらどんなに楽だろうか」なんて思ってしまう時もあるけれど、たぶんそれはそれで、どこか物足りなさが残るのかもしれない。すべてがクリアになっているなら、恋愛小説やエッセイの類は生まれないのかもしれない。

「迷宮入りしているくらいが人生のスパイスにもなるし、文化を豊かにする一助となっているのかも」なんて、この気持ちをポジティブに消化したいものだ。多分それは、本当だと思うから。

「友達についてみんな自分の定義を持っているのだから、難しくて当然だよね。でもそれが、生きる醍醐味よね」な思想に基づいて行動できたら、楽なんだろうなぁ。


余談ですが、別れ際にハグをしてくる旅好きの友達の話。「誰とでも別れる時はハグの人」だと思って受け入れていたけれど、実はそうではなかったらしい。私の認識を話すと、彼から「欧米かよ」とツッコミが飛んできた。“挨拶の定義”さえも、理解するのは難しいものです。

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