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その“存在感”はどこから来るのか

不吉な知らせがあるのかもしれない。そう思えるほど突然に、母が我が家へやってきた。

最後に会ったのはお正月だろう。コロナが流行ってから実家に帰るのをよしていたし、母も「また会えるんだから、今は帰らなくていい」と言っていた。だからこそ、突然「みほの家に行こうかな」と連絡が来て、その3日後にははるばる訪れてきた母から、何か大事なことを告げられるのかもしれないと不安になってしまったのだ。

平日のお昼に突然現れた母。手作りのパンと、家で採れた野菜の入ったバッグを両手に持ち、ついて早々キッチンに向かっていった。そして、下準備しておいた材料を出すと、すぐにご飯を作りはじめた。私は炊いておいたご飯をよそって食卓に出す。料理のあいだ母は、マスクをつけたまま口数が少ない。

微妙な沈黙が続くので、「家族みんなは元気にしてる?」と話しかけてみた。食材を焼く火の音とともに、マスクから漏れる声がする。「お父さんは、本当に老けたねぇ」と、真っ白な髪の毛のお父さんについて独り言のような返事が聞こえた。

食卓が華やかに彩られたら、向かい合ってご飯の時間だ。しかし「コロナ感染気をつけなきゃ」と対角線を提案され、なんだか話すのも悪くなって無言で食べた。久しぶりに会ったはずなのに、会話があまり続かない。何か聞かれることもなく、淡々と時間が過ぎていった。


結局、母は単純に家に来ただけらしい。抱いていた不安はすっかり杞憂で終わってくれて、よかったような、拍子抜けしたような気分だ。「おいしいね」と当たり障りのない会話をしながら、思春期はいろいろ聞かれるのがすごくうっとうしかったことを思い出した。あの頃と今と、逆になればいいのにな。

ご飯の後、私はリビングで仕事を続け、母はキッチンで食器を洗い、甘い香りのする紅茶をいれてくれて一緒に飲んだ。そして15時からのミーティング前には、再び実家へ戻っていった。急に思い立ってやってきて、往復時間と同じくらいしか滞在もせずに帰り、夢でも見ていたような気分だ。

そんな“夢”から覚めたあとで、これまでとはまた違った、不思議な時間が訪れた。“母が家にいないこと”の存在感がどんどん大きくなっていったのだ。何か有意義なことを話したわけでも、長く一緒にいたわけでもない。対角線に座ってご飯を食べ、控えめに話しただけなのに、いないと思うと物足りない。

これが、“いるだけでいい”ってことなのかも。もしかしたらこういうことを言うのだろう。

時々わたしは、「いてもいなくても同じだろうな」と思ってしまうことがある。自分に役割がないときや、あまり発言する機会が作れなかったとき。いなくてもいいのに存在してしまうことが、ちょっと申し訳なくなったりする。けれどもしかしたら、存在感って相手に働きかけることだけじゃないのかもしれないなぁと思う。同じ空間で一緒の時を過ごす。それだけでいいときも、あるのかもしれない。


去年の毎日note


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