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人の行動はことばに縛られているのかもしれない

ここ最近、毎日noteを書く時に、構成を考えてから書くようにしている。

スキルアップのための毎日noteに成長を感じられず、ツドイの今井さんに相談させてもらったところ、「何か1つ練習するスキルを決めて、その実践にnoteを使ったらどう?」とアドバイスいただいたからだ。「20歳の自分に受けさせたい文章講義」の中から1つピックアップしてやることで、毎日note倦怠期から抜け出すことができた。

的確なアドバイスのおかげですぐ行動に起こせたのはもちろんある。それともう1つ、私がすんなりやれた理由は、あることばで縛られているせいなんじゃないかなぁと思う。それは、浪人時代に塾の先生から言われた「素直でまじめな子」だ。

本命大学の入試には、毎年必ず長文の英語を読んで日本語要約する試験が出されていた。そのため英語の先生から、「●●大学を志望するなら、授業で使う長文を要約して練習するといいよ。書いたら見てあげるから、持っておいで」と言われ、1年間欠かさず持って行った。「リライト」と書かれれば、OKが出るまでやり直した。

受験も終盤に近付いた頃、先生と生徒何人かで雑談をしていたときに、上記のことを例に挙げて先生は、「素直でまじめな子」と言い切った。それは私にとって、暗闇のなかで1つのライトを見つけたような、泥だらけの床を1か所だけきれいにしてもらえたような、そんな気持ちになった。

それから私は、「素直でまじめ」ということばに縛られて生きている。私は素直でまじめだと思っているし、そうあり続けたいとも思っている。

先生のことばは幸運にも、私にとってすごく居心地のいい縛りになった。厳しかった先生がかけてくれたポジティブなことばだから、きっと本心なのだろうと思っていたからだ。

けれどかけられることばによっては、生きづらくなってしまうこともあるのだろうなぁと思う。

「ネガティブだから」「才能無いから」みたいなことばで縛られてしまうと、できるのにやれないことが増えるような気がする。「自己肯定感が低いから」と言ってそのままにしていれば、高まることは今後ないだろう。本当は縛られているだけで、それをほどいたらもっと出来ることが増えるはずなのに、ことばは重りをつけて自分にくっついてしまうのだ。

「今、自分の性格を定義づけていることばって、一体どこで気が付いて、誰に言われたものなんだろう。そしてそれは、本当に信じたほうがいいこと?」は、1度じっくり考えなおしたい。もしかしたら自分で自分に、変な縛りをかけてしまっているかもしれないから。


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