「生きる」ことが辛くなった君へ。
「生きる」ことが辛くなった。それはまったく突然、唐突にやってきた感情だった。この春小学校1年生になった娘を、夕方4時に学童から迎え、お風呂に入る前に「本読んで。」とせがまれていた時だった。
「お母さんなんだか、生きるの疲れちゃった。」娘を膝に乗せ、本を開いたときに無意識に口から出た言葉だった。
あ。まずい、と思ったその瞬間。娘が振り向き「しまないで!(死なないで)」と叫んだ。もうすでに、涙が溢れそうなくらい真っ赤な目をして、そういった。「おかあさん、しまないで。いなくならないで。」
_____やばい、ほんとごめん。
「死なないよ。ごめんね。居なくならない。お母さんはあなたがおばあさんになるまで、いきてるよ。大丈夫。ごめんね。」そう言って、真っ赤な目をした娘のおでこを撫でてからギュッと抱きしめ、バレないように、娘の背中越しで密かに泣いた。窓ガラスに映る抱きしめ合った「2人」を見て、なんだか小さい世界にいるな、そう思った。
翌日だった。突然、私の中でなにかが変化した。もしかしたら私たちは、「生きている」ようで「生かされている」のではないのだろうか____?
これまでずっと、100%自分の意思で「生きる」ということに一生懸命だった。世界の中心は私、じゃないけど、自分が自らの意思でこの世界を創り、半ばコントロールしているくらいの気持ちで生きていたように思う。だからこそ、寂しさや悲しみや孤独のような、一見ネガティブな感情が私を渦巻くと、まるで自分がしてきたことが全て間違っていて、私はなんて、未熟で大馬鹿物なのだろうかと、責めていた。自分で世界を創っているのだから、全ての尻拭いをするのは私で、その「責任」をとることだけに、必死になって生きてきたように思う。しんどかった。
でも。「生きるという意思」「未来こうなる、という創造力」それ以上に私たちは「生かされている」のではないだろうか。心臓、この心臓は誰が動かしている?数分止まってしまっては、カラダに異常をきたすこの心臓は、誰が動かしているのだろう?少なくとも、「私の意思」ではないようだ。寝ている間の呼吸、小腸のぜんどう運動、脳のシナプスの繋がり・・・これらの「生命活動」はだれが指示している?私、であって、でも私ではない。生きる、ということ。毎朝当然のことのように目を覚まして1日がはじまるということ、これは私の意思以上に、何者かが私を「生かそうとしている」そうとしか思えなかった。
「生かされている。」それは紛れもなく、私が、あなたが、この世に、この時代に、この世界に、そして今目の前にある環境や、関係する人や未来に「必要な存在」だからである。
「この蜘蛛は、どうしているの?」家に入っていた蜘蛛を怖がりながら言う娘にそう聞かれた時、「蜘蛛さんもこの世界に必要だからいるんだよ。この世で必要じゃないものなんて、ひとつもないんだよ。そもそも、生まれてこないんだ。」そう答えたのを、思い出した。
あなたも、必要なのだ。それは別に「役割」として特定の「誰か」のためにとか、そんな狭い範囲でじゃない。生まれてくること、そこに存在すること、「あなたがそこに、今、在る」ということ自体でもう、実は全てが完了している。全てが相互関係で成り立つこの世界で、あなたがいなくなってしまっては、この世界が少し、いびつになってしまう。成り立たなくなってしまう。今の目の前の「現実」を見たら、そうは思えなくても、もし視点を少し高く持っていったら…。もしあなたが、空に浮かぶ雲や、三日月の上に立って、あなたを含む「広い世界」を見ていたとしたら。ただ存在するだけで、いいのだと、そこにいてくれるだけで、生まれてきたことだけで、もういいのだと、確信できるのではないかと、思うのだ。
生きている。私たちは紛れもなく、今、生きている。でも。同時に「生かされている。」そこから180度、私の生き方は変わった。
私は私を、広い世界に開き、解放する。そして、私の心と、カラダと、魂が輝くように、私を活用してください。そう、毎朝世界に祈るようになった。なんだか肩の荷が降りて、ものすごくかるくなった。生きることが楽になった瞬間だった。
もちろん私は、生きる。娘のために。お腹の中で生まれてこようとしている新しい生命のために。私を愛してくれる人のために。そして、私が見たい景色を、私に見せてあげるために。でもこれからのベースはきっと、「生かされている、私。」であろう。そうしたら自然と、感謝の気持ちが込み上がった。私を生かしてくれているカラダの各臓器にも感謝だし、当たり前のように繰り返される食べて、出して、寝て、起きて、という日常の繰り返しにも、感謝しかない。私の毎日に、日常に、しあわせが舞い戻った、瞬間だった。
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