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禊(みそぎ)の行為

カウンセリングには2週間に1度のペースで通っていた。
それが自分を立て直す一縷の望みだった。

「わたしはけがれてしまった」
この感覚は拭い去ろうとしても、そう簡単には拭い去れない。呪縛のようだ。

通い始めて3ヶ月くらいたったころ、カウンセラーが強くすすめてくれたのは、最初は形式的かも知れないが、禊(みそぎ)の行為だった。

それは温泉に入ること。
頭までざぶんともぐり、あとはゆっくりつかる。新しい自分に生まれ変わる日として、温泉に行く日を毎月、自分の誕生日にするといいこと。

被害に遭ったときの身体の感覚。
「洗っても洗っても、肌から離れていかない感じ」とカウンセラーは表現してくれたが、まさにその通り。

身体の表面的は部分は洗い流せても、身体の奥の奥、どうあがいても手の届かない場所の傷は、簡単に洗い流せるほど生易しいものではない。

「侵入される恐怖」
被害にあったその日から、何十年もこの恐怖がつきまとう。 
今も完全になくなったわけではない。
この感覚、体感は、やはり当事者にしかわからないものだと思う。

幸いなことに、住んでいる地域には温泉がいくつかあったので、誕生日の日でなくても、時間があれば行っていた。
今でも温泉に入る機会があれば、禊として、そうしている。

30年近くたち、ようやく「けがれたわたし」からは抜けてきた。
侵入される恐怖は、まだうっすら残っているけれども。

カウンセリングのなかでは、回復のために必要なことだったり、カウンセラーの元を離れてひとりで生きていく時に必要なことをいろいろ教えてもらった。

それは、今のわたしの生きる智恵ともなっている。

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