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読書記録⑤『独立国家のつくりかた』坂口恭平著

この前何気なく気になったnoteの記事を読んでいたら、そこで坂口恭平さんのnote記事『お金の学校』が紹介され推されていた。推している方の記事も熱が入っていて面白かったので、興味をそそられリンク先に飛んでみた。まず一記事文が相当長くてびっくりした。そして、それにも関わらず一気に読めてしまった自分にもちょっと驚いた。なんていうか、引力がすごかった。


お金の学校に関しては(1)〜(11)まで記事がある中、まだ(6)までしか読めていない。楽しみながら残りの授業を受けたい。内容は一言では表せないけれど、読んでいる間中心地よい音楽を聴いているような気分になるから、ついつい先を目で追ってしまう感じなのだ。それはさておき、今回はその坂口恭平さんが2012年に出版された著書『独立国家のつくりかた』について書いていきたい。


もうすでに尊敬と信頼の念を寄せている著者の本を読み始める時は、何の疑いも不安もなくリラックスしてすうっと話の中に入っていける。
プロローグの『ドブ川の冒険』から引き込まれた。少年時代の著者が友達と暗い排水溝を歩いていくエピソードだ。鉄製の格子の蓋を開けて足首まで水に浸かり、水が流れ出るところまで辿っていく。そこで得た著者の気づきは、“視点が変わると世界が変わること”だった。いつもは上を歩いているはずの橋を下から見上げる。トンネルを抜けた先のいつもと同じはずの海は、道のりが変わっただけで違って見える。著者は子供ながらに冒険は自分で見出すのだということを知ったのだ。退屈な日常も、自分の視点や思考次第で変わるのだということを。


本書には“レイヤー”という言葉が繰り返し使われている。レイヤーとは透明なフィルムのようなものだ。例えばイラストなどをデジタルで描く際にレイヤーは重宝される。背景を遠景、近景に分けたり、人物や文字を載せたりするのに都合がいい。それらのレイヤー複数枚を別にして描くことで、背景を差し替えたり人物の表情差分を簡単に作ったりできるからだ。
レイヤーとはつまり、一つの世界を織り成していながら、存在している層が全く違うことを意味している。著者はそのことをホームレスから学んだ。普通の人の居住空間が家の中だけなのに対し、ホームレスたちにとっては都市一帯が家なのだという気づきを得たのだ。著者の言葉を引用してみる。

 彼にとって、公園は居間とトイレと水場を兼ねたもの。図書館は本棚であり、スーパーは冷蔵庫みたいなもの。そして家が寝室。
 それを僕は「一つ屋根の下の都市」と名付けた。

『独立国家のつくりかた』坂口恭平著


著者は子供の頃から「なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか」という疑問をはじめ、大地にではなく大家に家賃を払うことや、生存権が保障されているはずなのに路上生活者が絶えないことにも疑問を抱いている。
「そういうものだから」と大人が思考停止しがちな問題に、幼いながらも気づけるだけですごい。その上著者はその疑問を大人になるまで持ち続け、根気よくその解答を模索したり、解決とまではいかなくても何か抜け道がないかと探求するのだ。その姿勢と行動力には他者を魅了するものがある。


著者には大学で建築を学び大工修行をしていた経歴がある。実際それを活かして“モバイルハウス”をつくっている。モバイルハウスは車輪を四つつけた動く家だ。車両扱いになるため固定資産税はかからない。広さは三畳間ほどで太陽光発電で電気も使える。建築費は三万円をきり、著者曰く素人にも建てられるという。そして場所の問題は駐車場を借りることで解決する。そこに「住む」と明言すると貸主に断られる可能性が大きいため返事を濁すなどちょっとグレーゾーンではあるが、不可能ではない。
著者は法の網をかいくぐる。小心者の私からしてみたらヒヤヒヤしてしまいそうだが、そもそも常識や法は本当に正しいのか。「ルールだから」とそこから先を考えることを放棄してしまっていいのか。著者は柔軟に試行錯誤する。そして堂々としている。行動が伴っている著者の言葉が、読み手に刺さらないはずがない。


2012年に出版された本書の中には、東日本大震災が起こった当初のことも記されていた。原発事故の影響から逃れるため妻子を連れ、実家の熊本に逃れた著者。何かせねばと熊本の一戸建てを借り、震災から逃れてきた避難民を受け入れた。百人以上を宿泊させ、そのうち約六十人が熊本に移住することになったという。
震災当時、原発にまつわる事実を隠していた政府に不信感を抱いた人も多かったと思う。著者はいち早く政府に見切りをつけ、勝手に「新政府」を設立。そして自身が「新政府初代内閣総理大臣」に就任している。あくまで“勝手に”であって、規模だって大きくはない。でも当事者意識を持って、とにかく自分にできることをしている。
福島の子供五十人を熊本に無料で招待し、三週間のサマーキャンプを開催。国家予算も持たない一個人が、これを実行することがどれだけ大変なことか想像に難くない。短期間のキャンプが、その子たちの今後の人生を救うことに貢献するのか。そう思う人もいるかもしれない。でも動揺し傷ついている子供達の心を回復する時間と場所を与えられたとしたら、その後の長い復興期間を生きる糧にはなる。言い訳も葛藤も取っ払って、著者は優先順位をちゃんと見極められる人だと思う。


本書の第3章「態度で示せ、交易せよ」では、お金のやり取りについて具体的なエピソードを交え、興味深い内容が語られている。海外ではお金を持っている者が、持っていない者たちを当たり前に養っているということ。お金のない者でも歌やダンス、人とのコミュニケーションに長けているなど役目があって、それで問題なく回っている。お金なんてある者が払えばいい、そんな風潮が著者には心地よかったという。
多才で芸術肌の著者には、作家、建築家以外にも歌い手、絵描きなどの肩書きがある。初めて絵を売った時、買い手に値段を聞かれて「50万円だ」と答えて相手を納得させ満足のいく売買経験もしている。著者はこういう時「既存のマーケットなんかを意識しても駄目だ」という。「いつでも自分は一流だと思ってろ」そう自身に言い聞かせているのだという。



また初めて自分の本を出版する際には、初版の印税を受け取らない代わりに「もしこれが売れたら、二版目からは印税を10%にしてください」と交渉。出版する本にかかる経費の関係で、本来は印税が6%だったところを条件付きで値上げ交渉したのだ。さらに海外出版をするために自ら翻訳者を見つけて取引をし、なんと自分で海外へ営業にも行ってしまう。ものすごいバイタリティーだ。


こんな著者だが、実は躁鬱病を患っている。鬱期に入ると絶望するし自殺願望にもたびたび襲われるという。でも著者は鬱の自分も否定しない。まっすぐに見つめる。むしろ鬱になることで、物事をもっと“厳密な観察眼”で俯瞰して見ることができるとまで言う。そしてじっと行動せず見る時期を終え、躁状態になった時にはそこで得た気づきを活かしてまた存分に行動する。普通の人の何倍も動けてしまう著者には、強制的な休暇ともいえる鬱期は必要不可欠なのかもしれない。そんなところも含めて人間らしい魅力に溢れた著者の思想には、漫然と生きている私の心に訴えてくるものがたくさんあった。



また長くなってしまったので、この辺りで締めくくりたい。
読書記録ではあるけれど、今回は本の内容よりも人物の魅力に、より興味を持った。実は図書館で坂口恭平さんの小説も同時に借りてきたので、次回はその読書記録になるかもしれない。気まぐれなのでわからないけれど、今後も読書ライフを楽しみたい。

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