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【創作】帰還ラッシュ

ちっ。運転席の父が、十四回目の舌打ちをした。トイレ休憩に寄ったサービスエリアを出てからのカウントだ。ほぼ停止状態の車中で、晴人は高速道路がベルトコンベアーだったらいいのに、と思う。助手席の母は無言で窓際に頬杖をつき、後部座席では、今年中学に上がった姉の夏美が、とっくに味のしなくなったガムを機械的に噛み続けていた。その横で、晴人は軽い眠気を感じながら、つい数時間前に後にしたばかりの場所を思い起こす。


校庭を思わせる黄土色の硬い土。所々で伸び放題になっている雑草。瓦屋根の平屋。雑誌の束や古めかしい掃除機、洗濯かごが無造作に置かれた長い縁側。その前方の物干しにはためく、白いランニングシャツやブリーフ、藤色の薄手のブラウス。父方の祖父母の家はいつも、テレビアニメの「サザエさん」を連想させた。
晴人はその風景の中に、以前とは異なる点を見つけた。軽トラックとワゴン車の停められたガレージ横に、去年まではあった犬小屋がなくなっていたのだ。そのことを祖父に指摘すると、
「ああ‥‥コタロウなぁ、死んじまったんだ。三月の終わり頃だったか」
祖父はそう言って、土で汚れた軍手で額の汗を拭った。晴人は去年の今頃は確かにそこに存在していた、老犬を思い出した。毛の長いその犬は、晴人の一番古い記憶の中では白かった。しかし洗われずに放っておかれたのか、ここ数年はいつ来ても土や泥にまみれて茶色く薄汚れていた。
その時頭上を、飛行機が轟音を立てて通過していった。


到着したその日の昼は、すでに和室に用意されていたそうめんと、大ぶりにカットされたスイカを食べた。食後、父は座布団を二つ折りにしたものを枕にすると、早々に寝入ってしまった。子供たちはのんびりするように言われたが、自宅にいる時のようにくつろぐことは憚れ、三角座りで観たくもないワイドショーを眺めたり、庭先をぶらぶら散策したりして時間をつぶした。
次の日の午後は、祖父の運転するワゴン車にみんなで乗り込み、二十分ほどで着く墓地に赴いた。墓石を軽く洗い、花を手向け、一同は手を合わせる。大人たちに倣って晴人も目をつむり合掌したが、会ったこともない先祖に対して、何の感慨も持てなかった。正直、早く自宅のソファーに寝そべって、好きなアニメを観たり仲良しの祐樹や海斗と遊びたいと思った。だから目を開けた瞬間、祖父の乾いた手にぽん、ぽんと優しく頭を撫でられた時、晴人はどこか後ろめたい気持ちになった。


焼き魚や卵焼きの出される朝の定食。畑でとれたキュウリやトマト、蒸し鶏のどっさり載った冷やし中華。刺身、天ぷら、揚げ出し豆腐、かぼちゃの煮物に茶碗蒸し。祖母の料理はどれも美味しかったが、毎回量が多かった。加えて食事の合間には、おはぎや煎餅、アイスクリームをしきりと勧められた。晴人と夏美は祖父母のもてなしを断り切れず、多少の無理をしてそれに応えた。
青空にでん、と居座る入道雲のように時間はのんびりと流れた。しかし過ぎ去ってみれば、あっという間の二泊三日だった。
「気をつけてね」
「また来年も来い」
晴人の脳裏に、別れ際の老夫婦の姿が浮かぶ。祖父のよれたランニングからのぞく白い胸毛と、祖母の色褪せたペイズリー柄のエプロンが、開けた車の窓の間近に迫った。二人はたいして会話もしなかった孫たちの顔をじっと見つめ、走り出した車が遠ざかって見えなくなるまで、並んで立って手を振っていた。
車内には祖父母宅の台所と同じ匂いが漂っている。大きな二つの紙袋にぎっしり詰められたお土産のせいだ。
相変わらず車は進まない。晴人はいつの間にか、眠りに落ちていた。


最初は暗闇があった。
しばらくしてそこに一つ、ろうそくに火が灯るように光の玉が現れた。そしてもう一つ、また一つ、とそれは増えていく。赤、黄、青、緑、紫。どれも違った色の輝きを放ち、やがて寄り集まって一本の太い川のようになった。光の川は伸び続け、どこまでも蛇行していく。そのきらきらした光の集合体の中に、晴人はコタロウを見出す。いつも泥まみれできつい匂いを発していた、ほとんど触ったこともない老犬。コタロウはオレンジ色に発光して、もはや完全にその光の川に溶け込んでいた。
晴人は満ち足りた気持ちで、その光の流れを眺め続けた。


「はる」
名前を呼ばれ、肩を揺すられて目を覚ました。オレンジ色の車内灯の下、夏美の顔が近くにあった。窓の外はすっかり暗かった。
「もう遅いから、夕飯食べて帰ろうってさ。降りるよ」
夏美に急かされ、車を降りる。駐車場の暗がりの中、晴人は姉に手を引かれるまま、先を行く両親の背中を追った。父と母が振り返る。ファミレスの窓から漏れる明かりで、二人が微笑んでいるのがわかった。
あ、帰ってきた、と思った晴人の身体に、じんわりと安堵が染み渡った。


〈了〉


過去の公募、投稿作品です。読んでいただき、ありがとうございました。

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