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【創作】停電

真夜中、眠れずに布団の中でネットサーフィンをしていた。日々勝手におすすめ表示される芸能人のブログネタ。流行りのダイエット方法。映画化された小説の話。
就寝前にスマホをいじるのは、睡眠の質を低下させるから良くない。わかっていながら、やめられない。真っ暗闇に、ぼうっと四角い小さな光が浮かび上がっている光景は、妙に心を落ち着かせる。


その間にも、きっちり閉めたはずの雨戸はガタガタと大きな音を立てていた。風は唸り声を上げながら吹き荒れ、時折、築三十年以上の実家を地震のように揺らしてくる。
怖くはなかった。明日の朝はきっと空気が澄みわたって清々しいくらいだろう。日差しも強くなるかもしれない。強風や大雨の過ぎ去った後はいつもそうだ。


雷も台風も、子供の頃から怖がっていたのはいつも弟の明弘あきひろだった。ぎゅうっと強く握ってくる、湿った小さな手の感触。髪を洗うのが嫌いで、ちょっとくせっ毛の、汗ばんだ頭髪の匂い。
寝付くまでよく、小さな弟のために他愛ない作り話をしてやったっけ。(主に幽霊や呪いの話で、後にそれがトラウマになったと、明弘からたびたび恨みがましく言われたけど。)


そんなことを思い起こしていたら、急にネットが繋がらなくなった。なんの前触れもなく、唐突に。見るとスマホ画面の上方にあるWi-Fiマークが消えている。Wi-Fiルーターは一階にある。二階は電波が弱いから、時々繋がりにくくなることがある。軽く苛立ちながらもしばらく待ち、改善されないため再起動も試みた。しかし復活の兆しは一向に見られない。電波をモバイルデータ通信に切り替えればまた閲覧できるけれど、通信量が気になって落ち着かない。
「もういい加減、寝ろってことか」
諦めて布団の脇にスマホを置き、目を閉じた。
外では相変わらず強風が騒いでいる。


五ヶ月前に、母が死んだ。
その一年ほど前から、母は体調不良で検査に行った病院で、癌だと診断されていた。診察を受けてから、母はフルタイムで働いていたショッピングモールの食品売り場の仕事を辞めた。けれど、家族を同行するようにと言われた病院の再診にも行かず、抗がん剤治療も受けなかった。
母が選んだ道は、癌に関する数冊の本を読みあさり、自宅で食事療法をすることだった。ごつく重たいジューサーに、毎朝細かく切った人参とりんごを入れていくことが、すっかり母の習慣となった。
私は母に特別な手助けをした覚えはないし、励ましや優しい言葉をかけることもほとんどなかった。ただ猫のように、数年ぶりに帰ってきた実家で、母をなんとなく視界の端に入れて過ごしただけ。買物や料理、洗濯や掃除などは私が引き受けたが、基本的に弟と自分の世話をしていればよかった。
母の動作はしだいにゆっくりになっていったが、本当に亡くなる直前まで、自分のことは自分で引き受ける人だった。


「私のことはいいから、あなた、仕事探さなくていいの?」
逆に母から心配される始末だった。
「別にお母さんは関係ない。今、働きたくないだけだから」
本心だった。その時の私は、ちょうど抜け殻みたいな心境にあった。
上司との二年間の不倫と別れ。奥さんにバレたわけでもなく、相手の転勤という比較的円満な別れ方だった。数年後に再会して再び燃え上がるほどの情熱は、お互いとっくに失くしていたのだと思う。あっさりしたものだった。涙も出ない自分が、かえって虚しく、哀しかった。
仕事を辞めても貯金はそこそこあったし、実家で暮らせばしばらく困ることはない。私は病気の母にかこつけて、自分の都合で実家に戻ってきたのだ。


「あっそう。じゃ、家賃代わりに遠慮なく家事をやってもらうわ」
そう答えてから母は、その後私に対して一度も外で働けとは口にしなかった。明弘は母がいいというのに、社会人になってから毎月十万円を必ず家に入れていた。
私が高校三年の夏に父が脳梗塞で亡くなって以来、淡々と続いてきた三人家族の生活。役回りは変わったが、干渉しすぎず無関心すぎず、程よい距離感はあの頃のままだった。
私も明弘も、ゆっくりとではあるけれど、痩せて衰弱していく母を心配していなかったわけじゃない。ただ、全く思いもよらなかっただけだ。
母が死んでしまうなんて。


救急車。「今までありがとう」の母の一言。病院で、ほとんど昏睡状態の数日間。
冗談だと思った。冗談きついよ、お母さん。
押し寄せてきた感情の津波に溺れている自分を、他人みたいに斜め上から見下ろしている自分がいた。何これ、ドラマみたいなことになっている。明弘は真っ赤になって男泣きしていた。看護師や医師や葬儀屋がバタバタと目の前に現れる。皆、悲しい顔をつくって何某なにがしかを言いくるめるように話しては、去っていく。
気がつくと涙はすっかり引っ込んでいて、やることが山積みで、明弘と手分けして葬儀屋にもらった手引書に沿って、順々に処理していった。
五ヶ月が経過した今は、日常はほぼ通常運転に戻っている。
それどころか今でも私は、朝になって階下に降りたら、人参とりんごの欠片をジューサーにかけながら「おはよう」と何食わぬ顔で笑顔を向ける母に会える気でいる。そんな夢を、しょっちゅう見るせいかもしれない。


「姉ちゃん!」
明弘の声で目が覚めた。辺りは薄暗かった。スマホらしき小さな四角い明かりで、男のシルエットがぼんやり見える。
「何よ、どうしたの? 電気つけてよ」
私はむっとした。いくら姉弟でも、ドアをノックするぐらいしてほしい。
「つかねーんだって! なんか停電したみたい」
「はぁ?」
うわぁ‥‥なんか面倒くさいことになってるなぁ、と思いながらも身体を起こす。
「今、何時?」
「四時半くらい」
「えーっ‥‥まだまだ眠れたのに」
「何言ってんだよ。停電してるってのに」
「あんた、懐中電灯持ってきてよ」
「え? どこにあるんだよ」
返事の代わりに、私はこれ見よがしに大きく息を吐いた。


スマホの明かりで前方を照らす。廊下に出る。両親の仏壇が置いてある和室の畳を踏む。手前にある和ダンスの一番上の段、左側の小さな引き出しを引く。手を入れ、円筒状の硬い感触のものをつかんだ。
「あった」
スイッチを押す。暗闇に、光の輪が浮かび上がった。
「よかった。ついた!」
そこにあったんだ、と呟く明弘に、
「ね、照らしてるから雨戸開けて、ほら!」
と、和室の掃き出し窓を開けさせ、その隣の明弘の部屋、私の部屋の窓も開けさせた。外はまだ夜の気配をたっぷり含んでいたが、幾分明るくなった。
「やっぱり電灯も消えてるね」
ベランダに出て下をのぞくと、いつもなら律儀に、人も通らないコンクリートの道を照らす光が消えていた。
「きっとまだ気づいていない人ばっかりだね」
静まり返った家々の窓は暗い。じきに日は昇る。停電したのがまだこの時間帯でよかった。


現場作業員の朝は早い。明弘は、あと三十分もしたら家を出なければならない。
「停電してる区域ってどこまでなのかなぁ」
「知らない。スマホで調べれば?」
インスタントコーヒーの粉と砂糖を入れたマグカップに、お湯を注ぎながら私は言った。ティースプーンでかき回して牛乳も加える。牛乳は冷えてはいるが、水滴がパックにびっしり付着していた。もちろん、冷蔵庫内は暗かった。
「あっ! そういえばWi-Fiマークが消えたのって、停電のせい?」
昨夜突然ネットが繋がらなくなったことを説明すると、
「ああ、だって、ルーターの電源もコンセント使ってるから落ちるじゃん」
と、明弘がさらっと答える。
「電気使えないと不便だね」
「姉ちゃんが困るのは、スマホ使えないことくらいだろ? 電車使う人とか、あ、信号機とかも止まるのか。勤め人は大打撃だよ」
明弘の言葉に、自分の考えの浅はかさを見透かされた気がして、うっとなる。
台所はガス台を使うのに不自由しないくらいには明るい。二階のタンスの中にあった懐中電灯は、立ててランタンのように使用できるタイプだった。
明弘の分のコーヒーカップを「はいよ」とテーブルに置く。「サンキュ」と明弘はカップを持つと口元に運び、ふーっふーっと息を吹きかける。猫舌め。


「ねぇ、もしこのまま電気が復旧しなかったらどうする?」
ふいに、そんなことを口走っていた。
「え?」
明弘がちょっと驚いた声を出す。
「もうずっと電気がこなくて、こんな風に暗いままなの」
日常は、ささいなことであっさり崩れる。
「‥‥‥」
明弘が黙り込む。静けさが部屋を満たす。シーンという音が聞こえてきそうな沈黙だった。なんてね、すぐ元に戻るでしょ、と口を開いて言いかけた時、
「その時はその時でしょ」
明弘が、真面目な声音ではっきりと言った。
「え?」
「だって朝がくれば明るくなるし、電気のない時代だってあったんだし。なんとかなるでしょ」
「‥‥あんた、ポジティブだね」
「いや、だってしゃーないじゃん。生きていくんだから」

ーー生きていくんだから。

「明弘のくせに、偉そう」
「あん?」
台所の格子窓の外が、だんだんと白み出してきた。


明弘を送り出し、どうせ洗濯機も回らないし、とソファーにごろんと身体を横たえた。レースのカーテン越しに、朝の眩しい光が入り込む。
近所の人の、いつもより上ずった、少し興奮気味の会話が、小鳥がぴちぴちさえずるようなトーンで耳に入ってくる。停電の話題だろうなぁと思いながら、どこかホッとした心地で、ほんの少しだけ休もうと目をつむった。
次に目を開けてスマホの時計を見たら、十時七分だった。
「うわっ。やっちゃった」
たっぷりと二度寝してしまったことに少しだけ自己嫌悪し、ふらふらと立ち上がって冷蔵庫を開けた。中は煌々こうこうと明るかった。
「おっ!復活」
結局のところ停電の被害は、冷凍庫の奥に密かに隠しておいた、ちょっぴり高級なアイスクリームが、一度溶けて再び凍っていたことくらいだった。
シャリッとした新食感に生まれ変わったアイスクリームを一つたいらげると、充電されたみたいに気分が上がった。
「さてと。洗濯でもしますか」
私は軽く伸びをして、洗面所へと向かった。


〈了〉


過去作に加筆修正したものです。お読みいただき、ありがとうございました。

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