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【創作】陽だまり旋風

姉のひなたが四歳の息子、太陽たいようの手を引いて実家に出戻ってきた。太陽は姉が二十一の時に、超安産で産んだ子だ。
「かんな、久しぶり〜!姉ちゃん出戻ってきちゃったよ、てへ。しばらくお世話になるね〜」
玄関先であっけらかんと明るくそう言った姉の横で、太陽は黙ってちょこんと頭を下げる。
「みゃあん」
チリリと鈴を鳴らし、我が家のアイドル“あんこ”が姉たちを出迎える。
「あんー!ただいまぁ」
姉がボストンバッグをどさりと下ろし、かがんであんこを撫で回しながら相好そうごうを崩す。「ほら、ニャンニャンだよ」と姉が太陽に向けた表情はすっかり母親で、なんだか変な感じがした。


「あんたねぇ、戻ってくるならくるで、もっと早く言いなさいよ。昨日の夜いきなり言われたって困るわよ。太陽のものとか、用意が必要なものもあるでしょうが」
姉に呆れながらも「喉かわいたでしょう。オレンジジュースあるよ」と太陽を家の中へとうながす母。
「おっきくなったなぁ」と孫の成長に目尻を下げる父。
「はぁ、涼しい。」
父と母に太陽を託した姉は、あがかまちに腰かけて白いサンダルのストラップを外す。
「かんな今日仕事は?」
背中を向けたまま、姉が話しかけてくる。
「土曜だよ、今日。休み」
ため息混じりに答える。
「そっか。最近、曜日感覚なくてさ。彼氏とデートとかしないの?」
「しない」
「えーすればいいのに。夏だよ?ビキニ着てさぁ、プールでも海でも行ってくればいいのにぃ」
世話好きなおばちゃんのような口調だ。とても旦那にギャンブルで生活費を使い込まれ、浮気されて捨てられたばかりの女とは思えない。
「いいなぁ、プールでいちゃいちゃ」
「いや、しないし行かないから!焼けるし」
かんなは相変わらずだねぇ。猫のあんこに話しかけるように、姉が呟いた。


その晩の食卓には、姉の好物の鶏そぼろ丼とりんごの入ったポテトサラダ、それに太陽が好きだというお刺身が並んだ。デザートにぶどうまで出て、食卓は賑わった。たいてい会話していたのは母と姉で、話題の中心は太陽に関することだった。いつも通り無口な父はあまり口を開かなかったが、明らかに機嫌が良かった。
私はそぼろご飯を不器用にスプーンですくい、黙々とそれを口に運ぶ太陽をこっそり見ながら、女二人の賑々にぎにぎしいおしゃべりを聞くともなしに聞いていた。太陽のくりっとした大きな瞳や長いまつ毛は、姉にそっくりだと思った。


「ああ〜実家最高っ!」
と言いながら、お風呂上がりにバニラ味のスーパーカップを平らげる姉。じっと横目で見ていたら、
「そんな酔っ払いオヤジに向けるような視線やめてよ〜かんちゃん!」
と姉がにじり寄ってくる。
「ね、ね!最近どうなの?お姉ちゃんと恋バナでもしよう?」
酔っ払いかよ。面倒だと瞬時に察知した私は、
「お肌のためにもう寝るわ。おやすみ」
と会話をぴしゃりとシャットアウトし、リビングを出る。
洗面所の横を通る時、暖簾のれん越しに母が太陽の歯磨きを手伝っている様子がチラッと見えた。「自分で磨けるの、おりこうさんだねぇ」と母の声。まったくだ。我が子を見習え、と私は心の中で姉に説教し、そっと階段を上って自室へと向かった。


姉は昔から自由奔放だった。
彼氏もしょっちゅう変わった。服の系統もギャル系→モード系→コンサバ系と、見事に変遷へんせんするさまを見せられてきた。
友達が多く、家にいる時はいつもケータイの通知音がうるさかった。高校に入ってすぐアルバイトを始めると、原付の免許を取ってあちこち乗り回していた。あの頃、家にいるより外にいる時間の方が長かったのに、家に姉がいてもいなくても、その存在感は変わらなかった。
姉がリビングのソファーでいびきをかいて寝ているだけで、食卓で大盛りのご飯をかき込んでいるだけで、うちの中はワントーン明るくなった。
会社から帰ってきてネクタイを緩めた父は、挨拶のように「ひなたは?」と毎回母に訊いていた。母の答えはたいてい「バイトよ」「さぁ」のどちらかだったけど。


姉は一週間家に帰ってこなかったこともある。あれは姉が高校二年の夏休みだった。
リビングのテーブルの上に「友達と旅行してくる」と走り書きされたメモ一つ残して、ある朝姉は忽然こつぜんと消えた。母がケータイに連絡しても繋がらなかった。小言は言えど、基本的には子供の好きにさせていた母も、さすがに気を揉んだようだった。
一週間後の朝、両親が仕事でそれぞれ家を出た後、見計らったように姉はケロッと帰ってきた。私は一階の和室で、寝そべってソーダ味のアイスキャンディーをかじりながら、少年漫画の週刊雑誌を読んでいた。ガチャッと玄関で鍵を開ける音がして、あれ、お母さん忘れ物でもしたのかなぁと思っていると、リビングへ通じるドアが開いた。そして足音が近づいてきて、
「それ新刊? あとで読ませて!」
と、まるで散歩から帰ってきたようなテンションの、姉の声が降ってきたのだ。
姉はその晩、たいして叱られることはなかった。母には二言三言苦言を呈されたくらいで「まぁでも無事で良かったわ」と疲労を滲ませた声で言われ、早々に放免されていた。父はその日の夜、いつもより早く家に帰ってきた。姉の顔を見て安心したのか「あんまり母さんに心配かけないようにな」としか言わなかった。
暗黙の了解で両親も、娘の旅行相手が異性であることには気づいていたと思う。
「へへっ。彼氏と沖縄旅行してきたんだ〜」
姉は私にだけこっそりと、星の砂の入った小瓶と、ジンベイザメのオーナメントが付いたストラップをくれた。


のん気なものだな、と思った。
当時両親の間にはほとんど会話がなかったし、父の帰りはどんどん遅くなっていた。ちょうど高校受験を控えていた私は、自分でもピリピリしている自覚があった。母は私に直接愚痴をこぼしてくることはなかったけれど、すぐ溜め息をつくし表情が暗かった。スーパーのレジ打ちパートから帰ると、肩や腰に手を当てて「疲れた」と口に出すことも多かった。
一時期、私には家の中が仄暗い深海みたいに感じられた。光の届く場所で、一人自由に泳ぎ回っているような姉が、ちょっぴり妬ましかった。


姉が美容系の専門学校に通っていた頃、顔にアザをつくってきたことがあった。
「お姉ちゃん、それどうしたの?」
驚いて私が訊くと「ああ、これ?」と自分の頬に触れ「彼氏と喧嘩したんだわ」と姉は答えた。まるで、ツイてないわぁとでもいうような軽い口調で。
「なっ‥‥」
返す言葉が見つからなかった私に姉は、
「でも私の方が三倍は奴のことボコッたし。今度“夢の国”に連れてってもらう約束したからいいんだ」
と言って、ニカッと笑った。
アザが消えてしばらくした後、姉は本当に彼氏と夢の国を満喫してきたようだった。
「シーとランド、両方遊び倒してきたんだ〜!楽しかったぁ」
満足気に言うと、いつものようにまたお土産をくれた。お馴染みの可愛いキャラクターが描かれたお菓子の缶、プリンセスのイラストが入ったボールペンやらメモ帳、照らした場所にキャラクターを投影するペンライト、といつもより豪華だった。
「パスポートに食事代にお土産代に、もうぜ〜んぶ彼に奢らせてやったわ」
と姉はドヤ顔をした。
その彼氏とは一年付き合って別れたらしいけど、今でも友達だという。


カリカリカリ。部屋のドアを小刻みに引っ掻く音で、はっと現在いまに引き戻される。ベッドから身体を起こして、ドアを開けに行く。みゃあ。開けた隙間からあんこがするりと部屋の中に入ってきた。
「なぁに? たまには一緒に寝る?」
近頃ちょっと太り気味のあんこを「よいしょっ」と抱き上げ、あごの下をたくさん撫でてやり、ひたいに長めのキスをする。
日中、日当たりのいいリビングの掃き出し窓の前で丸くなっているせいか、あんこはお日様の匂いがする気がする。


そういえば、あんこを拾ってきたのも姉だ。
「バイト先のビルの裏にいたの。目ヤニだらけで近くに母猫もいなそうだったし、みぃーみぃー鳴いてて小っちゃくてかわいそうだったから」
よれた段ボール箱を胸に抱えて帰ってきた制服姿の姉が、昨日の記憶のように脳裏に浮かぶ。確かカラオケ屋のバイトをしていた頃だったから、姉が高校三年の頃だ。
「口元にあんこつけてるみたいだから、あんこって名前にしてみた。かわいくない?」
子猫の毛は全体的に白かったけど、耳や脚先、口元などがところどころ黒かった。
名前まで決めて、すっかり子猫を飼うことが決定事項のような口ぶりの姉を前に、母は眉根を寄せ、それはそれは深いため息をついた。
渋い顔をしながらも、次の日小さかったあんこを動物病院へ連れて行き、猫用のキャリーケースやらゲージ、トイレ、猫砂、猫用ミルクなどを買い揃えたのは、もちろん母だ。
姉は目ヤニのとれたあんこを抱き上げ「良かったなぁ、おまえ」と頬ずりしていた。
最初は遠巻きに見ていた、あまり動物好きではない父も、しだいに「あんちゃーん」と言いながらあんこを愛おしそうに撫でるようになった。
そうだ、あんこが我が家にやってきた時期から、両親も以前のようにポツポツと会話するようになったんだ。うちの中はもう深海じゃなくなった。


結局姉は、その二年後にはパチンコ店勤務の彼氏(後のクズ旦那)の家に転がり込む形で家を出てしまったけど。あんこはすっかり我が家の一員だった。


ぐるぐると喉を鳴らすあんこのお腹を撫でていると、優しい気持ちになる。しばらく大人しく撫でられていたあんこが一つあくびをすると、むくっと起き上がって伸びをした。そしてベッドからトテッと飛び降りると、おもむろに部屋の外へ出ていく。階段をどっどっどっと降りていく音が聞こえた。
「なんだ、やっぱりお母さんと寝るのね」
毎食ご飯をくれてトイレ掃除をマメにしてくれ、伸びた爪を切ってくれる人を、猫はちゃんとわかっている。


少し喉の渇きを覚えて、階下へ降りることにした。
浴室からシャワーの音がする。この時間ならたぶん父だろう。リビングは暗く、カウンターキッチンを照らす、小さな灯りしかついていなかった。寝巻き姿の母が、炊飯器に翌日分の米をセットしていた。
「あら、まだ起きてたの」
「喉かわいちゃって」
冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出すと、母がグラスを手渡してくれた。ごく、ごく、ごく。冷たくてひんやりとした液体が喉を滑っていく。おいしい。思ったよりも喉が渇いていたみたいだ。
身体が潤ったところで、リビング横の開け放たれた和室の暗がりに、何かの塊が目に入る。目を凝らすと、どうやら姉がでんと脚を投げだして仰向けに寝ているらしい。
私は母の肩を叩く。
「ねぇ、お母さん。お姉ちゃんあんなところに転がしといていいの? てか太陽は?」
母は「しぃっ」と口の前で人差し指を立てると、ふふっと笑って手招きした。


母と一緒にそうっと畳の部屋に近づく。大の字で眠る姉の脇あたりに、太陽がピッタリとくっついて猫のように丸まっていた。
姉は子供みたいにあどけない寝顔をしていた。軽く開いた口からは「くかぁ」といびきが漏れている。親子二人には猫の肉球柄の、桃色のタオルケットがかかっていた。
「見て」
母がそっとタオルケットの端をめくると、みゃあ、とあんこが顔を出した。いつの間に。眠たそうな目をしたあんこは、寄り添うように太陽の小さな背中に前脚を当てていた。
「タオルケット、ひなたにかけてあげたの太陽なんだよ。『おばあちゃん、ママが寝ちゃったから何かかけるものない?』って。どっちが親だかねぇ」
母がそうささやいて苦笑すると、
「みゃあ」
半分まぶたを閉じたあんこも、同調するように小さく鳴いた。
私と母は顔を見合わせて、ふっと笑った。

しょうがないお姉ちゃん。いい夢見なよね。


〈了〉


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