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読書記録④『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』黒川祥子著 

正直背表紙を一目見ただけでもう十分。読みたくない本だった。
こんなふうに書くと誤解を招くけれど、内容はすごく良かった。読みたくないのはこちらの事情だ。自分が40代無職で未だに親元に寄生して生きている立場だから。他人事とは思えなかった。自分の立場を再認識するためにもイタイと思いながら読了した。



基本的にルポルタージュは好きだ。「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもので「こんな人が本当に実在するんだ」「こんな関係性が成り立つものなんだ」「これほど残酷なことが実際にあるんだ」と驚かされることが多々あるから。それは自分の凡庸な生き方からは知り得なかったことだし、関係性にもよるが友人知人から簡単に聞き出せるような内容でもないことだ。人生は一度きりで、一人の人間が体験できることなんて限られている。だからこそ他の人の体験談はとても興味深い。



今までも結婚、妊娠、育児、離婚、DVやモラハラなどに関するルポルタージュを読み漁ってきた。単純に人間関係や環境から生み出される物語、その中で起こる感情の変化などに興味があるのだと思う。ただそれはあくまで無責任な傍観者としての興味、関心だ。でも今回の本に関しては完全な傍観者として読むことができなかった。内心で震え上がりながら読んだ。



8050問題。引きこもり当事者が50代、親世代が80代と高齢化しているという問題だ。養ってくれていた親も80代。誰かを世話する立場ではなく自分たちが介護される側になる年代だ。でも頼みの綱であるはずの子供は介護どころかサポートも期待できそうもない。さらに自分たちの死後、子供がまともに生きていけるのかという心配もある。


本の副題にもある通り、この本はあくまでそれぞれの家族の物語だ。8050問題を取り扱ってはいるけれど、ひきこもり問題の原因究明だとか解決策を指南することを主軸にはしていない。もちろん読むことでそのヒントを得られることもあるし、励まされることもあると思う。けれど、そもそも引きこもりと言っても様々なケースがあり、対処法も統一することなんて不可能だ。


引きこもりと家族はやはり切り離しては考えられない。一概に親が悪いとは言えないが、幼少期からの子供との接し方がやはり引きこもる要因の一つであることは否定できないと思う。親の過干渉、思想の強要、両親の不仲などは親が思っている以上に子供に悪影響を及ぼす。体裁だけ整えて外側だけ大人に成長しても、中身はまともな判断力も決断力もつかずに幼少期のまま置いてけぼり。それでも必死に周囲の同年代たちに合わせて社会人になり、ある日糸がプツンと切れたように動けなくなる。そんなケースも少なくない。


はたまた親が子供に潤沢にお金をかけ、過剰に世話を焼き甘やかし続けた結果、手がつけられないほどの暴君に育ってしまうケースもある。そして働かずに親を奴隷扱いし不機嫌を撒き散らすのだ。こうなってしまうと子供は一見加害者のようだが、やはり被害者でもある。
幼い頃から悪いことを悪いと教えられず、他者を気遣うことも、他者に譲ることも知らずに育ってしまえば当然家の外の世界で人間関係がうまくいくはずがない。それは親への攻撃性と引きこもりという態度で表現される。「俺を(私を)、こんなふうにしてしまったのはお前たちだ!」というわけだ。



幼少期の柔軟で多感な時期を、絶対的な存在である親から圧をかけられ怯えながら過ごさなければならなかったとしたら。自分の言いたいことも言えず、やりたいこともやれないまま操り人形のように大人になってしまったとしたら。充電が切れてしまったその当事者たちを、簡単に短期間で「社会復帰させてほしい」なんて土台無理な話だ。


この本の2章には、引きこもり問題に長年携わってきた専門家と呼べるような人たちも登場する。彼らはさすが当事者たちと直接関わってきただけあり、介入の仕方、スタンスの取り方を心得ている。当事者と直接話をして、この人は時間をかければ就労ができそうだとか、生活保護しか道はなさそうだとか見極めもする。就労を本人が望んでいてそれが叶いそうだと判断しても、急かすことはしない。少しずつ慣らし、あくまで当事者に寄り添っていく。そして家族側のケアも怠らない。
よく自己啓発などでは「マインドを変える」「意識を変える」などと言われるが、そんなものは生活という圧倒的な繰り返し、刷り込みの前ではチリのように心許ないと思う。本気で今までから脱出し変わりたかったら、環境や習慣、人間関係を少しずつでも変えていく以外にないのだろう。家以外に通う居場所。家族以外に話ができる人。しがみついていた淀んだ空気の家から一歩外に出れば、気分も考え方も変わる。



7つの家族の事例の中では仕事を始めた人、NPOのスタッフとして働き始めた人もいる。元々就労経験のある人たちではあるが、ブランクが長い中社会復帰を果たすのは並大抵ではないと思う。彼らに共通している点は「自分はこうしたい」と意思を伝え、支援を受け入れることができたことだと思う。当たり前だがきっかけは与えられても、それを掴んでモノにできるかどうかはやはり本人にかかっている。
「まだどうにかできるんじゃないか」と日々もがき、意地を張ってぐるぐると自責の念や焦燥感に駆られ、結局どう動いたらいいのかわからない。そんな不毛な日々を捨て、プライドも恥も捨てて。「もう一人じゃどうにもできない」と受け入れ、素直に助けを求めること。一度そんなふうに底まで降りて行くことが実は近道なんじゃないか、と思えた。


このままじゃいけない、とは思っていても変化を起こすにはエネルギーが不足している。そもそも夢も希望もない。生きているだけで精一杯。どうして自分は普通の人みたいに生きられないんだろう。常に自分の存在が後ろめたいから世間からコソコソと隠れるようにして、ひっそりと暮らす。死ぬ勇気もない。でもこのまま人と関わらず、生産的なこともせず、ただ漫然と歳を重ねていくだけの現状にも耐えられない。
そんな悲痛な叫びが、本の中から聞こえてくるようだった。自分の状況と重ねて余計に感情移入してしまったところもあると思う。


長くなってきたので、この辺で締めくくりたい。
私にとって読書は、現実逃避の一環でもあると思う。読んでいる時間は現実の問題に向き合わずに済むし、単純に物語の世界に浸れるから。だけど、自分に負荷をかける本を選ぶことで、こんなふうに読み終えた後で改めて内容や感想を言語化することで、読書の意味合いも大分変わってくる。「自分はどうなんだ」と問われ、気楽な傍観者の立ち場から引き摺り下ろされるからだ。
それはぬるま湯に浸かっている自分が、冷や水を浴びるようなものだ。冷や水を浴びることは健康法にもあることだし、これからも時々ならチャレンジしてみようと思った。





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