田沼武能 「人間讃歌」
むかし、ライターもどきだった頃、素敵な上司がいた。髪が艶々で、歌舞伎鑑賞が趣味で、美食家で華やかなお洒落。デスクと2人で名店に○をつけてくれた銀座の地図は宝物だ。
「このナイフだと、トマトのサンドイッチでも、ぐしゃっとならずにスパッと切れる」と薦められたブレッドナイフは今も健在だし、
幻のタルトタタンは美味しかったし、名入り月餅は、次男誕生時の内祝いとして大好評だった。
その月餅は、彼女が通う歯科医のプロデュースのものだった。名を清薫洞、という。
「あの田沼武能さんの奥様なのよ。」と教えてくれたのだが、当時のわたしは、❓ だった。
その間抜け面に向かって
「紫綬褒章も受けておられる、あんなに高名な方を知らないの?」とお叱りを受けた。
それまで、そんなに人から蔑まれたことのなかった人生を送ってきていたわたしは、
「あー、人って、信じられないほどのバカを見る時って、こんな顔になるんだー」と思ったのを覚えている。
その、田沼武能さん。
それ以降は、何かと気になって、新聞記事をチェックしたり、書店や図書館で手に取ったりしていた。
で、その田沼武能さんの写真展が恵比寿であるので、行って来た次第。
やはり圧倒されたのは、戦後の子どもたちの写真。本で読んできた知識、新聞で得てきた知識では知り得ることのできない時代の空気そのものが写されていた。
たとえば、靴磨きの仕事をするあいだ、道の柱に縛りつけられている子どもが、道端の溝の泥水で遊んでいる写真。あそんでいるとはいえ、眉間にしわがよるような表情だった。
有楽町の日劇ビルの狭間にいた戦災孤児ふたりは、ひとりは明るい笑顔で、ひとりは愁いにあふれる顔をしていた。その上下に座っている2人の対照的なようすから、なかなか目を離すことができなくなった。
1956年の国会議事堂前のバラックの写真も対比が鮮烈だった。立派で頑丈そうな国会議事堂と、吹けば飛びそうな庶民の住まい。。
浅草のストリップ小屋の前の妊婦の裸体の置物や、その看板を見る祖父と孫の姿も、これまでの私ごときの知識では、想像だにしなかった景色だった。
1952年には、晴れ着を着てお正月を祝うようにもなってきたのかー、という肌感覚のようなもので戦後を捉えることもできた。
今もむかしも、男子は棒を振り回すのが好きだよねー、と思うし、
「おにいちゃん、なりましたっ」って長男が、産後の私の部屋に初めて来て次男と対面した日のことを想起させるような写真もあった。( ; ; )田沼敦子さんのブログ見てきたけれど、まさに、まさに、この時にしか撮れないものって、あるんだなあ( ; ; )
1959年の筑豊炭鉱の家のぼろぼろさ加減も、頭では知っていたけれど、衝撃的なぼろさだった。壁も崩れ落ち、畳はざらざらで浮いていて、障子も跡形もないし、家具も全くないのに、中央で、下はおしりの子が、ブレブレで姿が分からないほど躍動してチャンバラごっこをしてる。家は死んでるけど、子どもの生命力は計り知れない。そこを切り取る写真家。
田沼さんの言葉が展示されていた。
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