11日目 推しが燃えたこと
宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』という作品が好きだ。
推しが燃える、推しは他人だし、自分と人生が交差することはきっとない。
でも自分の中では確かに身内という感覚があって、その推しが燃えている状況というのはなかなかに心に来る。
怒り?哀しみ?失望?憶測詮索邪推捏造なんでもあり。実に多彩な反応が全方位から推しに降ってくる。
推しが燃えたことで自分に見える世界の見え方まで変わってくるのは、推しを通して世の中の冷たさや強大さが垣間見えてしまうからかもしれない。
『推し、燃ゆ』ではそういうことも含めてとてもリアルに、静かに描かれていた。というか想起される感情と「推し」という言葉を通して追体験する思いが生々しすぎて怖かった。名著として残る古典文学も当時、この作品と同じくらい鋭利だったんだろうな、と感じていた。
ところで、先日本当に僕の推しが燃えた。
真実がどうかとかはどうでもいい。推しは推しだから。
でも、世の中は推しを許さなかった。
「そういえばあの時…」「あいつはやると思っていた」
普段黙っていた奴らまで「好きだったのに」「失望した」「もう見れない」
どういうことだ?
お前らの推しじゃないのか?君たちはそんなに簡単に推しを突き放して、話も聞かずに切り捨てて、攻撃できるんだ?
推しをちゃんと推せよ。お前らのために推しは生きてないんだ。
自分が勝手に作った推しで勝手に失望するなよ。
というか勝手に作った推しならそれをずっと推しとけよ。
推しは推しだから推しなの。
本当にネット社会ってクソだな、と強く思った瞬間だった。
人の話を聞かない、自分の主張ばっかり。
別に主張してもいいけどさ、人を攻撃するのは違えだろって。
Xはウンコする場所、って言ってる人がいたけど、勝手にウンコしとけよ。
人の家のトイレとかさ、個室入ってきてさ、「おめぇのウンコくせぇんだよ」って言わねぇだろって。
「デビューしたての頃の方が好きだった」とかいうやつもなんなんだよ。
推しはずっと考えて頑張って今があんだよ。
「昔聴いてました」とか「母が好きで」とかもさ、推しのこと、本当に見えてんの?誰に言ってんの?ちゃんと会話しようぜ。
SNSに流れてるほとんどの情報がクソなのかもしれない、こんなものに感情を動かされたり、脳みそのソースを使うのって全然有意義じゃない。
自分が大好きな人に大好きだよ、っていう時間に使う方がずっといい。
推しは推すからいいんだろうが。推せ。黙って推せ。
推しよ、健やかであれ。
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