老いてしまった男

「俺は老いてしまった。」
 荒れ狂う人の波を眺めながら、男は一人、当てもない自己嫌悪に明け暮れていた。
 口からは煙の立ち上るシガレットがだらしなく伸びている。真っ暗な部屋の中、液晶からの光を受ける男の生気の無い顔だけが、青白く照らされていた。この歳になって趣味のひとつもない、老いぼれの無様な死に面相である。これが若かったのならまた違ったのだろう。
 だが男は老いてしまった。
 テレビでは専ら地震の速報が流れている。関東の方ででかいのが来て、こっちの方にも来る可能性があるのだそうだ。震度5以上、避難必死の大地震。だが、逃げるつもりなど全くなかった。
 元より、死を待つだけの老人なのだ。今更逃げたところで仕方あるまい。画面に映る人々のように、生きるためだけに奮闘するということが、男にはもう不可能なのである。ならば死にたいかと言われればそうでは無い。成り行きで訪れた未来に甘んじようと言っているのだ。逃げ惑う人々の目には、生きようとする意志、あるいは死への恐怖が映っている。
「今の俺には、そのどちらもないのだ。」
短くなったシガレットを灰皿に押し付ける。男もきっともう、灰皿の上にいるのだ。かろうじて熱を持ち、僅かな煙こそ出してはいるが、そこに煙を出す意志は無い。残りカスが惰性で流れ出ているだけだ。
 ふいに、灰皿の上の灰が崩れた。崩れた灰がプルプルと震えている。
 揺れている。
 テレビの音にかき消されていた「その音」は次第に、テレビの音を越えて、男の耳に届いた。
 ゴゴゴ……
地震だ。来たのだ、本当に。外の通りからは、避難誘導する責任感のある男の声、悲鳴をあげる女の甲高い声、赤ん坊の鳴き声など、生命力に溢れた人間の出す音で溢れていた。そう、助かるのはああいう人達でいい。老いぼれが未来ある若者たちの手を煩わせる訳には行かない。元より身よりもないのだ。親類は死に絶え、弟も養子に入っている。残された男は老いてしまったのだから、もうどうしようもない。若かったのなら…

プツッ

 テレビが消えた。強まる地震の影響か、テレビからのみ供給されていた室内の光は絶え、本来の暗闇が俺の眼前に去来した。目から入ってくる情報を失った男は、感覚を耳だけに研ぎ澄ます。

『これやばい?逃げた方がええん?』
『メイクとか置いてきたくないんやけど、うち、取りに帰るわ』
『学校!皿見小学校に向かってください!!そこが指定避難場所です!!!』
『ここちゃんがいない!もう何してんのあの子…ここ!ここちゃん!!逃げなあかんよ!何してんの!』

 鮮明に聞こえるその音は声となり、確かな内容を持って男の鼓膜に響いてくる。それは自分が死ぬはずがないという若者が持つ根拠の無い自信であったり、他者を助ける優越感であったりするのだ。ここちゃんは娘なのだろうか、はたまたペットか…早く戻って来るといいが…
 そんなことを心の上澄みで思っていながら、その実、男はそれらに何も思っていないことに、心の深層では気が付いている。つまるところ、興味が無くなったのだ。他人にも、自分にも。
「最後になんか食うかな…」
男はそう思い立ち、耳に集中していた意識を元に戻し、冷蔵庫へと向かった。地面が揺れて上手く歩けない。
 よろよろと、直線とは言い難い軌道を描いて男は冷蔵庫の前に立った。
 なにか食おうかと思ったのも、死ぬ前の思い出に、などという殊勝な考えからではなく、ただ腹が減ったからと言うだけのことなのである。
 暗闇の中、取っ手を探りながらやっとの思いで冷蔵庫の前に立つ。中には鳥の炭火焼きがあったはずだが…いや、レンジは使えないかもしれないな…などと考えながら冷蔵庫を開けると、ふいに消えていた光が目にまた帰ってくる。思わず顔をしかめる。炭火焼は実際に冷蔵庫の中にあったのだが、見てみると食う気がしなくなった。他にはなにか無かったかと見回す。
 光に目が慣れるはずだが、一向に慣れない。男の目は細まるばかりである。どうしたと言うんだ。そこまで強い光でもないだろうと、男は思う。
 光は次第に強まっていく。四方に伸びる光の糸は、どんどん広がり長くなっていく。それに伴って、意識が遠のいていく。そうか、なるほど。俺ももう、お迎えが近いのだ。
どうせ死ぬのなら痛いのは嫌だと思っていたところだ。その刹那にいくらかの逡巡を巡らせたあと、男はその場に倒れ込んだ。


俺は地上をはるか上空から見下ろしていた。人は米粒ほどに見え、個々の持つ情緒は消え去り、皆が同じ速度でアニメーションのように動いている。俺はなぜこんなところにいるのだろうか。
さっきまで自室の暗闇の中にいたはずだが。冷蔵庫を開けたのだっけか。
徐々に意識を取り戻しつつあるが、年老いてノロマになった思考回路は、驚くという場所にたどり着くまでにまだ幾分時間をかけるようだ。
 ガクンと体が動く。かと思ったら、垂直に急降下して行く。ビルには万博の広告、山口百恵、現代では久しく見ない、そして男がかつて見慣れていたそれらが視界をスクロールしていく。一定の距離降りてみてわかった。
ここは現代では無い。俺がまだ大学生であった頃の東京だ。体が今度は地面と平行に移動していく。角を左、右と曲がり、道路を横断し。
 やっとのことでたどり着いたそこは、俺がかつて通っていた大学であった。校門には、一人の男が立っている。
 体はさらに近づいて行く。人の顔が分かるほどまで近づいた時、男はその校門に立っていた人間のことを鮮烈に思い出した。
「俺だ」
男の正面には一回り小さい女が立っている。
何やら話しているようだ。


『あの、先輩…お伝えしたいことが…』

『なにかな』

『先輩が好きです!付き合ってください!』

『どういうこと?』

『ずっと先輩が好きで…入学して人目見た時から!』

『嬉しいけど、ごめんね。俺は君より少し大人になっちゃってるんだ。達観してるって言うのかな?君くらいの子は小学生くらいに見えちゃうんだ。だから君は僕みたいな中身がおじさんみたいなやつじゃなく、他の人を探しなよ』

『お言葉ですけど、私、先輩を大人っぽいと思いません!!少なくとも、そこを好きになったわけじゃない…』

『君にはまだ分からないよ』
『』
『』


どこで聞いたか分からない、しかし、やけに聞き馴染みのある口ぶりだった。男は言葉が出なかった。この胸のもやもやはなんだろう。一体何が…
 すかさず、先程と同じ光が男の眼前を包む。
 まただ。もう見せたい部分は終わりと言ったように、次の場面へ飛ぶ。

 今度は俺がかつて勤めていた会社だ。
 次は上司と俺がいる。まだあまり禿げてないな、などと悠長に思う暇もなく、上司は過去の俺に対して単刀直入に切り出していた。

『君にならこの仕事を任せてもいいと思ったんだ。』

『ですから、僕に任せるより、若いやつに回してやってください。チャンスをあげてやってください。』

『君だってまだ若いじゃないか、私は君を買ってだね、、』

『僕は精神がもう若くないんですよ、冒険とか、そういうのする気がしないんです』

『向き合うことから逃げてるだけじゃないのかね?』

『僕は…』
『』
『』

 場面はまた途切れる。目の前が光で見えなくなる。次の場面に飛ぶまでの、その光に包まれる間、男の心の中の異物はだんだん大きくなっていく。男は恐怖していた。気付きたくないことを、目の前に押し付けられている感覚。俺が何かに気が付くまで、これは続く気がする。俺は、俺は

 次に映った場面でも、その次に映った場面でも、同じような映像が流れた。男が精神年齢を理由に何かを断っている映像。そして、確実に男が経験していた過去だった。
 男は薄々勘づいていた。自分が達観などしておらず、年相応の人生を年相応に歩んできていたということを。
 冒険するのが、アクションを起こすのが怖くて、それを精神年齢の老いを理由に遠ざけてきていたのだ。
 本当はなにも老いてなどいなかったのに。目の前に突きつけられた過去は、男を自責の念に苛ませ、ハリボテの達観を崩させるのに、十分すぎる効果を発揮した。
 光に包まれながら、男は泣いていた。顔中に夥しい数刻まれた皺を軋ませながら、声を出して泣いた。
 男はずっと、自分を正当に評価してくれていた人間達を、自分可愛さのためにないがしろにしてきたのだ。
 そして、一人になった。
 自分から進んで一人になったように思っていたが違う、自分の行いのせいだ。地震から逃げようとしなかったのも、本当は、命がどうでも良くなった訳じゃない。
 むしろその逆、自分のこの先の人生が、彩りを持ったものになる自信がなかったからなのである。順調に生き切ってしまって、何も結果を残せなかった人生だったら、そう思うと怖くて、偶発的に人生を終わらせようとしたのだ。
 本当は、頭の中には怖くて逃げたい気持ちしか無かったというのに。
 そう思った時、光は消え、俺はあの部屋にいた。暗闇に包まれたあの家。涙を額に残したまま、男はそこに戻っている。もしかしたら、ずっとここにいたのかもしれないが、どっちにしろ、男のやるべきことは一つである。
 男は、冷蔵庫にあったあらゆる食べ物を乱雑にビニール袋に詰め、そのままの勢いで裸足で通りに飛び出した。
 老いたフリはもうやめよう。
 男は自分に正直に生きると決めたのだ。過去はもう取り返しがつかない。だが、今からなら変えられる。通りにいた人達はもう皆逃げ切っており、誰もいない。
「俺も、逃げよう…」
染みと骨が浮き出た材木のような頼りない足で、通りを走る。
 今から、俺に何ができるだろうか。
 運動不足だったから、スポーツなど始めてみてもいいかもしれない。それかゲームとか、近所の小学生がよくやっているのだ。面白いそうだから初めて見ようか、他には…
 そんなことを思いながら、男はあることに気付いた。
 ちっとも前に進んでいない。
 必死に足を動かしている気になっていたが、結果が伴ってない。腐敗一歩手前の足は、既に足の持つ機能の多くを停止し、地面に棒のように突き刺さっているようだ。
 前に、前に、
 そう思うが、足は動かない。
 俺は、俺は、、、、、。
 
 その場に倒れ込む。しん…という音が実際に聞こえるのではと言うほど静かな街並みは、これから起こる災厄の下準備をしているようだ。
 ゴクリ、と、唾が喉咽を通過した時、その音が鳴った。

ゴゴゴ…!

 地面が揺れている。先程とは比較にならない。自分の家を見る。中にいると広いと思っていたが、外から見るとなんと頼りなく映ることか。脆い瓦の部分から崩れている。梁も既に折れかかっており、倒壊寸前だ。今の男のようである。
 せっかく、せっかく気が付いたのに、過ちに気が付いたのに…もう何もかも遅かった。
 男は奥歯を噛み締めながら、我が家の瓦礫に飲まれた。男の行方を知るものはもう誰もいない。そしてまた、死ぬ寸前の男の心の変化においても、当然誰も知るものはいなかった。

 男は本当に老いてしまっていた。

 

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