『Detroit: Become Human』の弊害
久々に、映画『ミスト』を観ました。ホラーが苦手な私には珍しく、大好きな作品で、何度も見返しているタイトルです。
『ミスト』の舞台は、突然霧に包まれた街。霧のなかに徘徊するクリーチャーたちは容赦なく人々を襲い、そんな街中のスーパーに取り残された人々は、恐怖で理性を失っていきます。
そんなサスペンス色の強い映画のなかでは、主人公である一児の父やその周囲の人々がさまざまな決断を強いられ、時には人間同士の殺し合いにまで発展します。
「やっぱり『ミスト』サイコー!」と大好きな映画を観ている最中も、思い出すのは『デトロイト』のことばかり! スーパーのなかにクリーチャーが突入してくる恐怖あふれるシーンでは、「×ボタン連打で回避しろ!」とか、人に銃を向けるような場面では「3秒以内にどちらか選べ!」とか、コントローラを握っているような気分です。
『ミスト』のなかでは、たくさんの「こうしていたらどうなっていただろう」という分岐点が多く残されています。もちろん、映画ですから自分でどうにかできるものではありません。
「剥き出しの恐怖にさらされると、人間はおかしくなってしまう」
「人間はもっと善良なものよ」
「文明が機能しているうちはね」
追い詰められた人々の大好きな会話シーンです。人間は分かり合えないものだなぁ……と改めて痛感させてくれるものです。(所説ありますが)人の考えを完全に理解できるガンダムのニュータイプ同士だって戦い合うだから、ただの人間が完全に分かり合えるわけもないんです。
『デトロイト』のなかで私は、アンドロイドはニュータイプのようなものだと感じていました。コネクトすることで、お互いの記憶や認識を理解し合える機械たち。それでも、お互いの信念によって反発しあうこともあります。それが感情の弊害です。それに、理解はできても分かり合えるかどうかは別問題です。
『デトロイト』での選択肢のなかでは、「そういう意味で言ったわけじゃないのに!」と、相手から思いもよらない返答が相手から返ってきて、ヤキモキしたこともあったはずです。でも、それが当たり前で、人間とアンドロイドも、人間と人間も、アンドロイドとアンドロイドも分かり合えない。ただ、それに絶望するのではなく、どう対処するのかが、プレイヤーに託されていました。
私の場合は、信仰によって強制的に信念をひとつにまとめるというある種の暴力を駆使しました。本当の暴力で人間に対抗するのも一緒で、「どちらの悪を選ぶか」と予言されたのは、まさにこのことも含まれるのかね、と恐ろしくなったものでした。
さて、『ミスト』の話に戻りますが、映画のエンディングには壮絶な結末が用意されています。まだ観ていない方のためにネタバレは避けますが、大好きなシナリオです(意地悪)。きっと、「こんな最後なんてみたくなかった!」という人もいるでしょう。でも映画ですから、変えることはできません。
でも『デトロイト』では、プレイヤーが物語に関与できます。一週目が終わったときは、家系ラーメン大盛りを伏せ丼したような満足感を味わえるはずです。そして映画同様、「これは私が作った物語だから、これ以上のものはない」と感じる人が多いはずです。
けれど、「こんなエンディング望んでいない! あの時、ああしていれば……」と思った人は、リプレイすることも可能です。だってゲームですから。
ちなみに私は、一週目でおなかいっぱいでした。今もまだ、おなかいっぱいです。人にプレイさせて、その動向を観察して余計おなかいっぱいで膨満感です。
でも、またいつかプレイしたくなる気がします。何かの節目(結婚したけど3カ月で離婚した)とか、(もういい歳だけど)大人になったと自覚したときとか、きっと理由はさまざまでしょう。その時は、どんな風に自分が主人公たちに感情移入し、どんな選択肢を選ぶのか、とてもとても今から楽しみで仕方がないのです。