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ジャッジとは。

私の今生のテーマ「愛と許し」の「許し」についてちょっと結論出たので書く。今まで嫉妬や愛憎、または気を引きたいがためだけに投げつけられた感情。仏教の教えでは、そんなことにいちいち振り回されるのはあなたの時間の無駄であるとか、相手は心に何らかの傷やそうせざるを得ない事情があったんだから「物事を判っているあなたが許しなさい」と教える。つまりは「相手は物事が良く判っていないのだから(無知なのだから)許しなさい」って。あとはもっと上の視点から、上の立場になって、許しなさい、と。外の世界は自分の鏡なのだからって言うけどこんな不条理な話ってない。誰だって人生のステージが変わる手前とかで周波数の合わない人が環境に紛れていたり、ニアミスすることだってあるだろう。だから、そんなことで自分を責める必要はない。まずは「許し」や「ジャッジしない」は自分に向ける為の言葉と捉えて良いと思う。「相手を許せない自分も許す」「相手に違和感を感じる自分を許す」。大体持って許せないことに悩む人なんて大概優しい人なんだろう。自分が受けた負の感情を持って別の人に攻撃をしている人はそうすることによってどんどんと新しいカルマを量産している訳だから好きでやっているとしか言いようがない。

でも人には上も下もなくてワンネスだって言うのなら前記の話の辻褄が合わなくないかって思う。そもそも「下に見られて許される」のって嬉しいか?私は神でも仏でもないからだから勝手なエゴや虫の居所が悪いとかの大したことない理由で攻撃してくる人がいたら「絶対許さない」ね?でもその人のことで胸をいっぱいにして悩むことはないよ、時間の無駄だから。理解しただけ。ただ絶対許さないって決めた。でも私はあなたを下になんか見てない、その方が良いでしょ。また他の人に同じ様なことをすることが罷り通るなんて思って欲しくないし。それが私の愛。

「ジャッジしない」って言葉は都合良く使われてる気がするね。社会であまり宜しくないことをしている人を見かけても見て見ぬ振りの「ジャッジしない」。投票してもどうせ変わらないから「ジャッジしない」。思考することを放棄する「ジャッジしない」。でも誰かに擦り寄って、する必要のないおべっか使ったりしてたらもう「ジャッジしちゃってる」んだよね~。たまに何でこの人はあの人にあんなに擦り寄ってるんだろう?別にあの人に比べてこの人が劣ることなんて何もないのに。って思うことが良くある。まぁ強いて言えばそうやって誰かに擦り寄らないとその場にいられないって思い込んでることが自分の価値を下げてるよなぁと思う。あとは逆に人付き合いで仲良くなれそうな要素があっても見えない腕一本分の距離を取られることがめちゃくちゃ多い。判ってる、何かあったときにすぐ逃げられる間合いを取ってるんだよね。「私はこの人とそんなに仲良くありません」「そんなことあったんですか、いえ私はあの人とそんな仲良くないので判りません」って言う為に。そんな人間関係。私は好きな人や仲良い人の何か悪い噂を聞いたときに「本当にそんなことした?あいつァ優しいやつだよ」「そんなこと誰が言ってたの?」って聞きたい。そしてよしんばそれが事実だとして本当に自分の仲良い人が誰かを攻撃したり傷つけたりするようなことをしたのであれば「何でそんなことしたの?」「信頼してたのに残念だ」って本人に言いたい。可能であれば挽回のチャンスをあげたい。それが信頼した人付き合いってもんじゃない?マイキーだって一虎許してた。過去、自分って薄情なのかな?って思ったことがある。周りの人の方がよっぽど愛情を持った人付き合いする人たちばかりだったから。自分の未熟さをその人の背中で実感させられることが多かった。今その人たちはどこにいるんだろう。探してもあまり見当たらない。おーい!出てきてー!!!



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