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祖母との思い出は、ボンタンアメと爽健美茶

ボンタンアメと爽健美茶には思い入れがある。

人見知り真っ盛りだったわたしと、やわらかくて温かかった祖母との思い出。



祖父母の家は自宅から電車で4駅のところにあった。家族みんなで訪問したり、わたしと2歳年上の兄を預けたりと数ヶ月に一度は顔を出していたように思う。

祖母はわたしたちが行くたびに近くのスーパーでお菓子を買ってきてくれていた。ケンカにならないよう、わたしの分と兄の分をサッカー台の薄い袋に分けて入れてあった。
ハイチュウ、グミ、駄菓子。そのなかで毎回必ず入っていたのがボンタンアメだった。どうしてだったかはわからない。特に好きではないが嫌いでもなかったので、包んであるオブラートごと食べるその不思議さでいつも文句を言わずに食べ切っていた。

お菓子を用意していないときは一緒にスーパーまで行って、好きなお菓子や飲み物を選ばせてくれた。
覚えていないが、いつの日かわたしが爽健美茶を選んだ日があったようで、そのときから「みゆちゃんは爽健美茶が好きだから。」とよく爽健美茶を用意してくれるようになった。わたしはむしろクセのある味が少し苦手だったけれど、わたしのため嬉しそうに用意してくれる祖母に何も言えず、ちょっぴり我慢して口をつけていた。

5歳のわたしとって、会うたびにお菓子や飲み物をくれる祖母は、一番お気に入りの祖父母になるには充分だった。


2002年5月9日。
幼稚園が終わったあと近所の幼馴染と家の周りで遊んでいると、兄が迎えにきた。
「いますぐ帰ってこいだって。」
そんなことを言われたのは初めてで、戸惑いながら幼馴染に別れを告げて家に帰った。扉を開けた瞬間に家中を走り回っていた母の姿が目に入った。
「お兄ちゃんは一番黒い服を着て。あなたは制服を持ってきて。」
母にそう言われて幼稚園の制服と靴を用意したことを覚えている。
「ばばが死んじゃったから、今からばばの家に行くよ。」
何かとんでもないことが起きた。それだけはわかった。

祖父母の家に着くと雰囲気が違った。匂いも違う。
当たり前のように生活していた部屋の一角には布団が敷かれていて、顔の部分には頭全体が覆われるように大きな白い布巾がかけられていた。
横たわっていたのは、冷たくなった祖母だった。
わたしと兄はそこで初めて亡くなった祖母に会った。親戚のおじさんが布巾をめくって顔の部分は見せてもらえたけれど、そこから上は見せてもらえなかった。
どうして?と聞くと、「子どもにはちょっと・・・。」という答えが返ってきた。
見せてもらえないなら、見てやりたいというのが子どもの好奇心だった。次々にくる訪問客のタイミングを見計らって、大人が見ているところを盗み見した。

祖母の頭は剃られていて、大きな縫い跡が走っていた。

いつもは出かけない夜に散歩に出かけた祖母は、駅前の横断歩道を少しずれたところを渡っていたそうだ。そこで前方不注意の車にはねられ、頭を強く打ったと聞いた。
病院に運ばれて手術を受けたけれど、朝になって息を引き取った。66歳だった。
車の運転手は逮捕されて、地元紙に小さく小さく載ったその記事を見せてもらった。この事故のせいなのかはわからないが、横断歩道の位置が塗り替えられたことを覚えている。

人が亡くなるということは、もう会えないことだとは理解していた。かけてくれた愛情やそれを失う悲しみは、5歳のわたしにはまだわからなかった。
わたしがまず思ったのは、祖母にもう会えないというより、もうお菓子がもらえないということだった。その事実に涙が出た。

葬儀の前後は暇だった。わたしと兄、ときどき2歳下の従姉妹は別の部屋で遊ぶように言われていて、たまに年上の女の子が一緒に遊んでくれたり親戚のおじさんがコンビニに連れて行ってくれたりした。それでも時間を持て余して、大人たちが今何をしているか覗きに行った。
あるときは写真の選定。あるときは業者と葬儀の相談。あるときは香典返しの話し合い。こんなに詳しく覚えているということは、きっと誰かがわたしの「何してるの?」に対して丁寧に答えてくれたからだろう。幼稚園を休んでもいいという非日常に少しワクワクもしていた。
5月の日差しは暑さを感じるには十分で、親戚のおじさんに買ってもらったピグレットのチェーンマスコットにチョコレートアイスをこぼした。祖母が眠っている少し寒いくらいのその部屋に近づくのはあまり好きではなかった。

葬儀のことは、あまりよく覚えていない。
従姉妹が声をあげて泣きながら、何度も「わたし、えらい?」と叔父母に問いかけ、その度に「えらいね、えらいえらい」と少し困ったような面倒そうな返答をされていたこと。母に促され、棺を閉める前に祖母の肌に触れながら「ばば、またね」と言ったこと。
花でいっぱいになった棺と眠っている祖母を見て、きれいだと思った。花の香りに包まれたわたしはそんなことを考えながら彼女を見送った。



あれからちょうど22年が経った。
2024年5月9日、わたしは人生で一番大切な人と家族になった。
卒業式、成人式、また卒業式。一生に一度しか着られない服に袖を通すたびに、わたしは祖母のことを思い出す。
わたしのランドセル姿すら見られなかった祖母は、わたしがいつかウエディングドレスなんて着たらどんな言葉をかけてくれるだろうか。
祖母の言葉遣いを思い出すのは難しいけれど、
「あらー、きれいね。幸せそうね。」
なんて、言ってくれるだろうか。

ずっと前の記憶なのに今でもこうして思い出すことができるのは、きっと祖母に毎日話しかけている母が、人を大切に想う気持ちを教えてくれたからだ。
「守ってくれているからね。」
そう言われると、不思議ないいことがあったときや最悪の事態を免れたときに祖母の存在を身近に感じる。

スーパーで見かけるボンタンアメと爽健美茶は、わたしにとって祖母とつながる手段になった。味やデザインが変わってしまったところもあるけれど、それでも祖母の優しさを今でも感じることができる。

祖母はいつもわたしの近くにいて、見守ってくれている。
きっとどんな姿も一番近いところで喜んでくれるんだろうな。今までも、これからも。

「うん、わたし、今とっても幸せだよ。」

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