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沼戦記②〜my white night〜


2014年8月の日記




「結婚しても保守的にならない、その感覚の原動力は何なの?」

鶯谷の汚い定食屋で、彼がわたしに聞いた。
朝5時半の店内には、酔い果てた客とホームレスしかおらず、ブラウン管のテレビが静かに聾話者向けのニュースを流している。

「保守的になる過程には、自分に対する嘘があるでしょう。それに気付いてしまったら、無視することができない」
すこし考えて、わたしは答えた。
「大切なものはひとつじゃないもの」


彼とは、一昨日知り合った。



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どこまでも倦怠的な8月の夜の空気をのろのろとかき混ぜるように、頭上で扇風機がまわっている。
私は東新宿の古いバーにいた。
女友達に連れて来られた。

「会わせたい友達がいるから」
と、彼女は言っていた。
その「友達」は、特殊なジャンルのエロ本を作る仕事をしていて、とんでもなく変態で頭がおかしいと、彼女の事前情報を真に受けていた私は、
目の前の優しげな青年の姿にやや戸惑う。
健やかに伸びた背筋に、黒目がちの、子犬みたいな顔立ち。

「大学生なの?」というのが、私の彼に対する第一印象だった。
「22歳くらい?」
そう尋ねた私に、
「34だよ」とすこし傷ついたように彼は答えた。

友達がトイレに行った隙に渡された名刺には、
経営している出版社の名前が記載されていた。


帰りの電車でメールを送った。
「明日の夜、空いてる?」
と返ってきた。
「鶯谷でアングライベントがあるの。興味があったら一緒に来る?」

「行く」
考えるより早く送信ボタンを押していた。



土曜の24時の鶯谷はワンダーランドだった。

ドラァグクイーン、女装、ボンテージ、ラバー、ドーラー、フンドシ、全裸、SM、、
様々な性癖の発露で広いイベント会場は溢れかえっていて、カオスそのものだった。
宇宙的ではなく、宇宙そのものである。みたいな。
不思議の国のアリスにでもなった気分だ。
花柄のワンピースが異世界から浮いていた。

目を輝かせて探検する私に、
彼らは掻き分けるのに苦労するほど寄ってきた。
どうやら、このイベントは変態同士の交流の場であるらしい。
緊縛ショーは四つん這いのM男の上に立って見たし、言われるままに顔を踏み、顔に乗り、股間を蹴った。
やってくださいと乞われると、どうも断れないわたしはその都度本気を出してしまい、その様を笑われ、囲まれ、写真に撮られた。
刺激的でたのしかった。

マゾヒストが、自分のマゾ的欲求を満たすためにサディストを操作するという、谷崎文学の金字塔「春琴抄」を思い出していた。


変態に囲まれた一晩を過ごしながら、わたしと三浦くんは下ネタの一言も話さずに別れた。
そのことにあとになって気づいた。


その代わり、映画とドキュメンタリーの話をたくさんした。
好きな監督や映像作品について、ドキュメンタリーの創作性について。
朝7時の山手線には初夏の光が差し込んで、彼の黒いサンダルを履いた足と、私の白いサンダルを履いた足を照れくさいような初々しさで染めていた。

「こんど、映画に行かない?」
そう言った私に、彼は、
「いいよ、何か探しておく」
と答えた。



彼と別れて中央線に揺られながら、
別世界みたいな昨夜のことを、私は思い出す。

むせかえるような熱気。
誰も彼もが、闇にまぎれてきれいに収まりのつかない「自分」の置き場所を探しているみたいに見えた。

ショーのトリは「白鳥の湖」だった。
マネキンのように美しいドラァグクイーンが、痛切なあの旋律に合わせて針のついた羽を自らの身体に刺していく。
腕も顔も荊の羽で飾り、壮絶に羽ばたく彼女を見て、思わず涙が出そうになった。



透明なものごとを、いつも探している。
だから、わたしはいつまでも自分を守れない。

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