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都知事選挙戦、およびその後の場外乱闘を見て思うこと

7月7日の七夕の日に都知事選が終わりました。私は都民ではないので選挙権はないのですが、それなりに興味を持って公示前の動きも含めて選挙の経過を追っていました。

私は選挙が大好きで、人並みに支持政党もあったりなかったりするのですが、それ以上に「定期的に首長や議員が選挙により改選される」というシステムに対する愛が深いです。たとえ一度の選挙で不適格な人が選ばれたとしても次の選挙で修正が効きますし、また失敗の教訓は長く残るので同じ失敗を防ぐこともできる。よって、私は一回の選挙で一喜一憂する必要はないとも思っていて、不適切な言い方かもしれませんが「紅組がんばれ白組がんばれ」という感覚で選挙を見ています。

選挙というのは「最大多数の最大幸福」と親和性が高いので、「最大多数の最大幸福」の欠点であるところの「多数者の利益のために少数者の利益が犠牲にされる」(一人をいけにえにしてみんなが幸せになることを防げない)という問題はあるものの、それでも選挙は既存のシステムの中では最良だと信じています。


「社会はなぜ左と右にわかれるのか」

今回の都知事選の特徴の一つとして、右を向いても左を向いても選挙が終わった後の場外乱闘が長く続いたことが挙げられるのですが、個人的には昔読んだ本を思い出しました。

この本は3部から構成されており、極めて大雑把な説明をすると、

  • 第1部:人間による道徳的な善悪の判断が理性的に行われるというのは妄想である。まず直感的に判断がなされ、理性は後付けでその判断の妥当性に対する説明を行おうとする。

  • 第2部:保守もリベラルも、<ケア/危害><公正/欺瞞><忠誠/配信><権威/転覆><神聖/堕落><自由/抑圧>という6つの基盤から政治的な信念を選択している。ただし、保守が上記6つすべてを重視するのに対し、リベラルは<ケア/危害><公正/欺瞞><自由/抑圧>の3つへの依存が高い。

  • 第3部:人間は個体であると同時に集団を形成する本能がある。そして、集団間の競争に勝つために自グループの他メンバーと団結し、自グループに没入するように設計されている。この結果、政治グループに所属した際には、グループの大きな物語の正しさをいたるところで再確認することになり、外側からの指摘で自分の間違いを認めることは非常にまれになる。

というものです。(やむを得ないことながらも)引用文献をちゃんと読まないとその主張の真偽についてはにわかに判断しがたいのが玉に瑕ですが、3部にわたってとても面白い本です。ただし、この投稿では第1部についてのみ触れることにします。

アレックス・トドロフの研究が紹介されている箇所を引用します。

彼は、アメリカにおける何百もの上院下院議員選挙を対象にして当選者と次点者の写真を集め、被験者に候補者の所属政党と選挙結果を教えずに、各選挙戦について二人のうちどちらが有能に見えるかを尋ねた。その結果、被験者が有能だと判定した候補者のおよそ三分の二は、実際の当選者であることがわかった。
(中略)
その際の脳の働きが何であれ、(中略)一瞬にして起こるのだ。

第3章〈象〉の支配 p109

と紹介されています。これ以外にもいくつかの事例が紹介されているのですが、「社会はなぜ左と右にわかれるのか」では、

動物と同様、人間の心は近くの対象となるすべての事象に直感的に反応し、それをもとに行動する。

第3章〈象〉の支配 p110

と結論付けられています。
また、これとは別に「人は自分の望む結論に達するためにさまざまなトリックを使う」という主張の裏付けとして

知能テストの成績が低いと言われた被験者は、IQテストの正当性に疑問を投げかける論文を好んで読む。カフェイン摂取と乳がんの関係を報告する(架空の)科学論文を読まされると、コーヒーをつねに飲んでいる女性は、男性や、それほどコーヒーを飲まない女性より、そこに多くの誤りを発見する。カリフォルニア大学アーヴァイン校のビード・ディットーは、重度の酵素欠損症の検査を名目に、被験者に紙切れをなめさせるという実験を行っている。紙の色の変化(実際にはまったく変化しない)が欠損症の兆候を示すと教えられたときより、変化したほうが望ましいと言われたときのほうが、被験者はより長いあいだ色の変化が現れるのを待った。また、望ましくない診断を下された被験者は、テストが妥当でないことを示す理由(たとえば「きょうは普段より口のなかが乾いている」など)を何とか見つけ出そうとした。

第4章 私に清き一票を p147

というような事例を紹介しています。この二つから、「人はまず直感的に良否を判定し、そのあとで理性によりその判定に対する理由付けを行おうとする」という習性が示されます。個人的にはとても納得のいく内容だと感じました。

脳の補完機能について

この話から連想したのが、緑内障による視野欠損の発見が遅れてしまうという話です。

視野が欠損していても、緑内障になっていない方の目や、脳が視野を補完してくれるため、欠損部は黒く見えず、片目が失明寸前でも気づかないこともあります。

https://grace-eye.jp/glaucoma/
グレース眼科クリニックのサイトより(https://grace-eye.jp/glaucoma/)

これは、十分な情報を得ていない状態でも脳が勝手に情報を補完して、気づかないうちにつじつまを合わせてしまうという機能の一つだと思います。似たような視野の補完機能としては、次のような錯視もよく知られています。

The Vergeサイトより(https://www.theverge.com/2016/9/12/12885574/optical-illusion-12-black-dots)

これは図の中には12個の点があるのですが、脳が勝手に情報を補完するために点を12個同時に見ることができないというものです。もう一個、「Amodal補完」というのもよく知られています。

「アモーダル補完を利用した動画CAPTCHAの提案」より

これは、(a)を見ると人は勝手に(b)のように二つの四角形や丸が重なっていると想像してしまうという現象を説明した図です。しかし実際には(c)のように一つは四角、もう一つは欠損した四角であったり、丸と欠損した丸の可能性があるのに、これには思いが及ばないというものです。

補完機能は視野だけに及ぶものではありません。認知症の方の一部には、このようなあとからの補完機能が顕著に見えるという話も聞いたことがあります。記憶力、認知機能の減退によりつじつまの合わないことを言ってしまい、その矛盾をほかの人から指摘されたときに、巧みに理屈付けをして矛盾を修正してしまうというものです。

  1. すでに昼ご飯を食べたあとなのに、そのことを忘れてまた料理を始めてしまった

  2. 家族から「もうご飯食べたから今料理する必要はない」と指摘される

  3. 「これは昼御飯用ではなく、だれか来訪者が急に来た時のために念のために作り置きしているものだ」と理屈付けをする

というようなものです。認知症だからこういう補完が働くのではなく、認知症の方には言動に矛盾が発生しやすいから補完機能が目立ちやすいだけであり、人間にはすべてこのような補完機能が備わっているのだと思います。

右や左の旦那さまたちによる場外乱闘再考

私は年季の入ったネット中毒者で、とくにXが大好きです。幸い、フォロー数を絞っているのでいつまでもXを見続けるという事態には至らずに済んでいますが、都知事選後はとくに選挙後の場外乱闘に関するポストがたくさん流れてくるようになりました。

そのポスト見ていると、よく「ブーメラン」とか「他人に厳しく自分に甘い」だとかいった批判がなされていますが、保守、リベラルいずれからもちょっと無理筋ではないかと思うような主張が多々見られるように思います。
上記「社会はなぜ左と右にわかれるのか」に書かれていること以外にも、個人的には脳の補完機能が働いていることもこの左右の分断には大きく寄与しているように感じています。不十分な情報をもとに勝手に脳が補完を行って「現実」を認識してしまい、その結果自らの主張を支持することばかりを信じてしまうという事態に陥っているのではないでしょうか。

認知症の方を見ても、この脳の補完機能を自覚したり、または補完された「現実」を否定するのは至難の業のように感じました。よく、自分とイデオロギーの異なる方のことを頭が悪いだとか、倫理観にかけるだとか言う方もいらっしゃいます。これは相手の言っていることを理解できていない(つじつまが合っていないように見える)から一面やむを得ないところもありながらも、この補完機能は頭の良しあしにかかわらず働くものなので、実はあまり頭の良しあしとは関係がないのではないでしょうか。

だからといって、この分断に対する有効な処方箋は思いつかないのですが、せめて自分が

  • 自らの主張は、理性によるものではなく直感によるものである可能性が極めて高い

  • 人は自分が信じたいものに対しては、その事実を正当化するような理屈を後付けで作り出す

  • 人の脳には補完機能が備わっているため、必ずしも自らが認識している「現実」が本当の現実とは限らない

ことを自覚することで、ちょっとでもこのわなを避けることができないかという淡い希望を持つしかないのかとも思います。

おまけ

タイトルカバーの画像は、「五等分の花嫁」第4巻からとったものです。

平等じゃなく 公平にいこうぜ

全員に平等に結果を与えるのではなく、全員に公平に機会を与えて、結果は個々人の努力に従って得られるようにしようという趣旨の発言です。

「社会はなぜ左と右にわかれるのか」によると、保守はこの種の公平(本書では「公正」という単語が使われていますが)を志向するのに対し、リベラルは「平等」を志向すると書かれていました。よって、「五等分の花嫁」で五つ子姉妹全員からモテてしまう主人公上杉風太郎は、どちらかというと保守的な思想の持ち主と言えるのかもしれません。

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