CREDO QUIA ABSURDUM 2,プロテウス ⑤
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「まったく……」
アレクサンドラは一つ嘆息すると、自宅へ帰るかのような気安さで聖ミコライ教会の敷地へ入り司祭館の裏口を開けた。付近の台所で作業をしていた神父が、驚いて顔を上げる。
「これは……シスター! いかがなされましたか?」
「すみませんが、また電話を借りますよ」
「それは……構いませんが……」
あっけに取られた神父だったが、修道女の後ろに薄汚れた男が立っていることに気がついた。一瞬不審そうに眉を顰め、すぐに記憶の回路が繋がった。
「貴方は……まさか行方不明になっていた──」
そのまま神父は絶句した。というのも、発見された瓶詰め手紙を預かり、降下教会へ連絡したのは彼だったからだ。まるで幽霊でも目の前にしたように言葉を詰まらせたが、やがて次第に表情は緩み、神を賛美するとフロレクの肩を叩いた。
「しかし……なぜ彼までここに? 先ほどは救護を呼ぶために連絡したと伺いましたが……」
渡り廊下へ出て聖堂へ向かおうとしていたアレクサンドラの足が止まる。硬い石畳に打ちつけられて、ブーツの踵が鳴った。
「事情が変わりましてね。フロレクについては、ご自分で救護は必要ない、と」
現場に急行した地元医療班の見立てによると、細かい擦り傷以外にはフロレクの健康状態に異常はないという。しかし、彼が潜伏していたのは腐敗極まる地下水路である。病院へ連行しようとする救命士たちだったが、フロレクはそれを振り切りアレクサンドラに同行した。
彼の心中にあったのは、地下で出会った恩人の最期、あるいは奈落へ落ちていった少女について──。自分に、彼らのためにできることなど無いと理解していた。それでも、この事件の顛末を見届けなくては自らの人生に決定的な何かを欠いてしまうと、そう思えてならなかったのだ。
しかし、そんなことなど知る由もない神父は、二人へ心配と不審の入り混じった目を向けていた。
「地下に居たから分からないかもしれませんが……貴方は五日間も行方不明だったのですよ! 神の家よりもまず、病院へ向かうべきです」
肩を掴む神父へ、イタズラのバレた少年のような気まずい表情を浮かべながらフロレクは弁解する。
「説明はしづらいが──助けてもらったんだ。水や食料をもらったり……」
「いったい……誰から?」
当然の困惑を受け、口ごもる。
「それは……」
「誰」という問いに、彼自身も答えることはできない。言葉も通じなかったのだから身の上も知りようがない。そもそも、「人間」なのかすら……出てきた言葉は答えになっていないものだと、彼自身も気がついていた。
「おそらくあの人は、地下に住む者だ」
またしても叫びそうになる神父を遮り、アレクサンドラがフロレクの言葉を次ぐ。
「問題は、その人です。メリーが言っていましたが、地下に怪物とも無関係ではないとすれば──アレを倒す解決策が見出だせるかもしれません」
歩みを再開したアレクサンドラを追って、フロレクが部屋を出る。その後ろへさらに、困惑を顔に貼り付けたままの神父が続いた。庭仕事をしていた侍者の少年が、心配と好奇心が半々といった面持ちで様子を伺っていた。
「ま、待ってくれ。そんなことよりメリーは大丈夫なのか……?」
アレクサンドラの元へ駆け寄りながらフロレクが訊いた。
「ん? まあ、本人があの様子ですから大丈夫でしょう。高所から落ちたぐらいで死ぬようには鍛えていません」
「…………」
鍛えてどうにかなるものか、とフロレクは言いかけたが、彼女たちは「魔術師狩り」の降下教会である。人の形をとった神秘とも言える彼女らに、常識の尺度は通じないのかもしれない。現に、目の前のアレクサンドラはさきほどからメリーを心配するどころか、その行動の無鉄砲さに文句すら口にしている。
フロレク自身は気が気でなかったが、とりあえずメリーについては飲み込むことにした。
「お、お二人も、その地下に住む何者かについては……?」
神父の問いに、フロレクは歩きながらかぶりを振る。
「分からない。ただ、普通の人間でないことは確かだ。死人のような真っ白な肌に、赤い瞳……。そういえば──」暗闇の中で身振り手振りを交えて会話を試みようとする男の姿を思い出した。「なんというか、外には出られない、みたいなことを言っていたような気がする。その……太陽が苦手、だとか」
「まるで吸血鬼ですね」
いつの間にやら隣に来ていた侍者が、神父へ耳うった。
「馬鹿なことを──神の家の中ですよ」
たしなめる神父をよそに、フロレクは苦笑いを含みながら付け加えた。
「いや、俺もそう思ったさ。だが、牙は無かった。それに……血を吸われていたら、俺はここに帰ってこれなかっただろうな」
少し冗談めかした説明を聞きながら、アレクサンドラは静かに顎へ手を当てた。
「まあ、吸血鬼の概念自体が怪奇小説のイメージを強く受けていて、すでに伝承とはかけ離れているのですが……」
伝承、という言葉で思い当たる。仮に、あの白い人物が個人ではなく複数人──家族集団や村などの共同体を形成していて、長年あの地下に住み着いているとしたら……。この地域での目撃例があってもおかしくはない。そして、それが怪談や昔話といった歪んだ形で伝えられていても。
「フロレクさん。あの手記に“ウトピェク”と書いていましたね? たしか、水辺の死霊や水死体の怪物を指す言葉ですが」
ウトピェク、あるいはトピェレクは、スラヴ系の地域では一般的な妖怪伝承である。水の精霊であるヴォドニク(ヴォジャノーイ)とは違い、その「utopić」の名の通り溺死者が変じた存在とされ、スコットランドのケルピー、日本の河童など世界各地の水魔伝承と違わず、人を水底へ引き込んで殺すという。
「あ、ああ……」フロレクは、青い顔で聖堂の扉を開ける神父を横目に見ながら答えた。「お袋や近所の爺さんから、よく言われたからな。どこそこの池にはウトピェクが出るから近づくな、って。それに──下水関連の仕事だとたまに怪しいのを見ることがあってな、それを昔はウトピェクと言ったもんだ。若い職員は単に“幽霊”って言うことのほうが多いが……いや、同じようなものか?」
言いながら思い出す。
「もしかして、フィリピアクが逃げたのはあの男を見たから……?」
だとしたら、なんと残酷なことであろうか。あの時、無理矢理にフィリピアクを引き止めていたら……。いや、当時の自分にそんな判断ができる訳がない。だとしても、気道を塞ぐようなやりきれなさがフロレクを襲った。
聖堂に入りながらも、アレクサンドラは頭を捻っていた。
「ほかの地域のことは分かりません。しかし、この土地に限って考えてみれば──。神父は、この辺りのお生まれですか?」
「え、ええ……」
「何か思い当たることは?」
話は聞いていただろう、とばかりにアレクサンドラは尋ねた。しかし、神父は目を逸す。
「私は……何も」
だが、その退路を絶ったのは、意外にも侍者の少年だった。彼は何かを思い出したように目を輝かせると前のめりに口を開いた。その純粋な目を、神父は苦虫を潰したような顔で見つめ返した。
「神父様! ありましたよね、ここら辺にもウトピェクの民話!」
「貴方もこの地区の生まれですか?」
「はい。……でも、あまり昔話には明るくなくて……。神父様であればご存知かと」
「……シスター、彼はその……迷信深い子でして。それに、教会の中で話すようなものではありません」
案外厳格な男であるらしかった。もっとも、だからこそ神父になったのかもしれないが。
アレクサンドラは神父の前に立つと、その後ろめたそうな目を見据えた。
「悪霊やレヴィアタンの話はするのにですか?」
「それは聖書の中の話ですから。主の創りしものでしょう」
「化け物であれ、水霊であれ、主の御業によって創られたことに違いはないでしょう」
言い返そうとするのを止めて唸ると、神父は椅子に腰を掛けた。
「……それもそうですね。誠に、主の御業たるや……。それに、まだ地下にもう一人潜っているのでしょう? 調査協力のため仕方なく、ということにしておいてください。お役に立てる話かは、分かりませんが」
「助かります」
神父は深く溜息を吐いた。そして、説教の時とは異なる静かな口調で話を切り出す。
「この地区は昔から川湊として栄えましたからね。その分、昔は水難者も絶えなかったと聞きます。なので、ウトピェクにまつわる民話ももちろん。……その中でも一つ、他の地域には無い変わったものがありまして──」
†
黒い風がつま先から身体を撫で、フードをはためかせながら頭上へ吹き抜けていく。もうどれほど闇の中を落ちているだろうか。ほんの十数秒のようにも、何十分も経ったようにも思える。ほとんど視覚を奪われた中で、残る四つの感覚は異常なほど張り詰めていた。焦燥感に追い立てられるように鼓動が加速していく。
メリーにとって、落下高度は問題ではなかった。
だが底の見えぬ暗黒は、少女の心の中に安直な、しかし根源的な恐怖のアイデアをもたらして蝕み始めていた。冥府にさえ到着しえぬ永遠の落下。救い主の手すら届かぬ深淵。──ブラックホールに吸い込まれた者は永遠に落ち続ける、などと脅す、昔読んだ旧文明の書籍の一文も脳裏を掠めた。
圧縮された不安が後悔に転じようとした寸前、僅かに視認できる周囲の景色に違和感を覚えた。
「横穴?」
メリーは壁に鉄鎚を突き立てて減速しながら、周囲を眺める。
壁に所々、人一人が通れるほどの穴が開いていた。いや、石のブロックがちょうど長方形になるよう抜き取られたその様子は、開けられていたと言ったほうが正しいだろう。そのいくつかに、縄と木片がぶら下がっている──まるで、切れた吊り橋のようだった。
どれか一つに入ってみようか、などと思っていたその時、
「────!」
縄の一つに、白い物体がしがみついていた。メリーは穴の入り口に飛び乗ると、慎重に縄ごとそれを引き上げる。
そして、目の前のそれが何者であるのか理解すると、目を瞑り、静かに祈った。
縄にぶら下がっていたのは、胸から上だけになった男の死体だった。損傷は激しいが、その顔には見覚えがある。──フロレクと一緒に居た、あの不思議な白い男だった。
結局、助けることはできなかったのだ。
重い瞼を上げ、遠慮がちに懐中電灯の光を当てながら、メリーは改めてその顔を眺めた。
──若い。恐らく、二十五歳にはなっていないだろう。目を背けるようにしながら、彼の姿を検分する。
胸から下は、内蔵ごと消え去っていた。噛み千切られたのか、あるいは引き千切れたのか──判断することもできなかったが、それ以上深く考えることもできなかった。
縄を掴んだ左手は、爪が深く食い込むほどに強く握り込まれていた。摩擦で破れた掌の肉が痛々しい。しかし、何故こんな場所に──。
「この先、ってこと?」
メリーは、自分が今いる穴の奥へ目を向けた。僅かな空気の流れが奥へ向かっている。
男の遺体を担ぐと、水を含んだスポンジのように血が滴り落ちた。メリーはそれを気にする素振りもなく、暗闇の奥へ歩き始めた。
────大穴を挟んで向かい側、同じく吊り橋の残骸が垂れ下がる横穴の奥で、一つの白い影が修道女の姿を見つめていた。
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