見出し画像

CREDO QUIA ABSURDUM  2,プロテウス ①

1

 暗い地下水路の中に、男の荒い息遣いが反響していた。その呼吸音の中に、自分ではない何者かのものが混ざっているような気がして、彼は時折、口を抑えて周囲を見渡す。
 だが、誰も居ない。いや、居たとしても見えないだろう。周囲にあるのは闇と湿気だけ。地面に置かれたランタンの灯りは頼りなく、かろうじてその周りを照らすのみ。安物の万年筆、業務に使っていたメモ用の裏紙、ウォッカの入っていただろう拾ってきた瓶、これもまた拾ってきた腐りかけのコルク……。

「────」

 一呼吸深く吸うと、心拍数が落ち着くのを待って手元に視線を戻した。
 男は地面に座り込んで紙に何かを書いていた。すでに、びっしりと文字で埋まった数枚が傍らに重なっている。古い地下水路の地面は凹凸だらけで湿っていたが、彼にはそんなことを気にする余裕はなかった。
 試験でも始末書でも、ここまで長い文章を綴ったことはない。男は、筆を執る自らの右手の能弁さに驚嘆していた。
 彼に家族は居なかった。両親とは死別し、妻とは数年前に別れた。何かを遺してやる相手は居なかった。市民として警戒を呼びかけようという殊勝な心持ちも無い。しかしそれでも、この理不尽に押しつぶされ消えていくだけの人生は我慢ならなかった。これを拾った一人だけでもいい。この恐怖と、同僚の死を悼む気持ちを共有できれば……。
 震える手で署名を入れた瞬間、男は筆を放り投げた。これまでの人生、文芸や芸術に縁は無かったが、画家が作品を仕上げた時の気持ちが理解できたような気がした。
 原稿・・を順番通りに並べ、丸め、瓶に入れる。そして、コルクでキツく封をした。決して水が入らないよう、念入りに。
 男のすぐそば、一段低くなった場所に水路は通っていた。水路の濁った水は、粘性を帯びるかのように静かに流れている。男は痺れた脚に鞭を打ち立ち上がると、慎重に瓶を水に浮かべた。
 早鐘を打つ彼の心臓とは裏腹、瓶はゆっくりと流れていく。ランタンを掲げ、できるだけ遠くまでその様子を見届けようとした、その時だった。
 通路の闇の奥に、あの赤い双眸・・・・・・が睨んでいた。
 男は、声にならぬ悲鳴を上げた。人生最期の仕事はやりきったつもりだった。しかし、死の瞬間とは覚悟すら塗りつぶすほどに恐ろしく──。


 修道院の朝は早い。カトリックの流れを汲む降下教会でも、修道女たちは太陽より早く目を覚ます。起床から一時間で朝課と読書と黙想を済ませ、ミサで祈りを捧げてから、質素な朝食で心身を満たす。そして、日が中庭に差す頃には、皆が畑仕事や事務仕事に精を出しているのだ。
 そのはず、なのだが。

「起きなさいメリー! もう九時ですよ⁉︎」

「はッ……。…………は⁉︎」

 枕から顔を上げると、春の眩しい日差しが目を貫いた。どう考えても朝日のそれではない。というか今九時って……。いや、問題は言葉の内容ではなく、誰が言ったのか、だ。
 メリーは恐る恐る、自室のドアのほうへ目を向ける。
 そこには、修道服を着た長身の女性が立っていた。端麗な顔つきは二十代を半ば過ぎたほどの歳に見えたが、絵画や彫刻に現れる聖母のように、姿に見合わぬ円熟した雰囲気が漂う神秘的な女性だった。
 ただでさえ底知れぬ彼女の貌が、今朝(昼)は怒りに燃えていた。
 ゴトゴトと石を打ちつけるかのような足音がベッドへ迫る。

「……お、オハヨウゴザイマスドブレ・ラノ……アレクサンドラ院長……」

 そう、院長。降下教会に属する修道女全員の上に立つ女性であった。
 彼女はメリーの寝巻きの襟を掴むと、悪さをした子猫を捕まえるように軽々とその身体をベッドから引きずり出した。

お早うラノではありません。お前はいつもいつも……」

「いや、わたしも目は覚めてはいたんですけどね? ちょーっと疲れて起き上がれなくてぇ……」メリーは逃げる算段で横目にドアを見る。するとそこに、心配そうに覗く同輩の顔を見つけた。「オルレアーッ、なんで起こしてくれなかったのー⁉︎」

 突然名前を呼ばれた少女の肩が、ビクリと跳ねた。彼女は押すと悲鳴をあげるゴム人形のように、咄嗟に弁明の言葉を叫んだ。

「おおお、起こしましたよ⁉︎ 三回ぐらい。それなのにメリー、ぜんぜん起きる気配無いから……!」

「もっとちゃんと起こしてよ! 身体を揺らすとか、顔をつねるとか!」

「しましたよ⁉︎」

 オルレアの言葉を聞いて、アレクサンドラは一層声を低くした。

他人ひと頼みにせずとも早起きできるぐらいにはなってほしいのですが」

「…………。いや、だってわたし、昨夜までシャルビアに出張してましたし? 帰ってきたのも夜遅くだったから……」

「ほう? その割には、そこにいるオルレアとお土産を分け合う時間はあったようですが……?」

 冷や汗が頰を伝った。ゆっくりと院長の顔から目線をずらす。机の上には、シャルビアで買ってきた揚げ菓子ポンチュキの袋が出したままだった。……部屋には、修道院に似つかわしくない甘ったるい香りがまだ漂っている。

「ヤベー……」

 助けを求めようにも、オルレアの姿はすでに入り口から消えていた。

「逃げやがったな……」

「お前は逃げられませんからね。そもそも、まず出てくる考えが反省でないことも問題なのですが……」

「…………仰る通りで」

 突き刺すようなアレクサンドラの視線が痛すぎて直視できなかった。と、その時、不意に首根っこを掴んでいた手が緩んだ。

「まあ、それは後にしておきましょう。今日はやってもらいたい仕事もありますし」

「助かっ……」メリーは胸を撫で下ろしつつもふと気がつき、物申さずにはいられなかった。「いや昨日の今日でまたですか⁉︎」

 先ほどの言葉通り、彼女は昨晩まで魔術師探しの依頼で遠征していた。列車での移動日数を入れれば、約二週間あまりの長旅である。

「お前が予定以上に外泊しているからでしょう。……ああ、そうだ。そんなに疲れているのなら、着替えを手伝ってあげましょう」

 制止は一切聞かず、アレクサンドラはメリーの寝巻きを剥ぎ取っていく。

「ちょっ、ちょっと⁉︎ 自分で着替えます! 着替えますからー‼︎」

──十分後、メリーは寝癖の治らない髪を黒いヴェールで抑えながらアレクサンドラの後を歩いていた。
 砂っぽい石造りの回廊に、二人分の足跡が響く。すぐ隣の中庭で畑仕事に勤しむ同輩たちを羨ましそうに眺めながら、今回はどんな無茶振りをされるのだろう、とメリーはため息を吐いた。

「あのー……そろそろお仕事の内容を教えてほしいんですけど……」

 アレクサンドラは口元に手を当てると、少し考えるように首を傾げた。どうやらもう怒りは治っているようで、メリーは少し安堵する。

「下水道の白ワニ、という話は知ってますか?」

「え?」

 予想だにしなかった質問を受け、メリーは言葉に詰まる。

「白いワニなんて居るんですか? あ、生き物の名前でたまにありますよね、ぜんぜん見当違いなヤツ。ロシア原産じゃないしセージでもないロシアンセージとか」

「……まあ、世代的に知らなくても無理はありません。──かつてのアメリカ合衆国、ニューヨークの都市伝説です」

「ああ、都市伝説」

 メリーの肩から、少し力が抜けた。

「ペットとして飼いきれなくなったワニを下水道に放したら、人食いワニに成長した──という安直なホラーでしてね。オマケにそのワニは、地下で生きていたせいで肌がアルビノのように白くなっていたのだとか」

 荒唐無稽な話だった。特に、美白になったワニを思い浮かべてメリーは吹き出す。

「そもそも、ペットにワニを飼う時点で非現実的ですよねー」

「いや、それは結構あったようですよ。あと、飼いきれなくなって逃す例も。現実には、下水道の環境に耐えられず死んでしまうようですが」

「ええ……」

 火のない所には──というものだろう。爛熟した旧文明、その先頭に立っていたであろうニューヨーカーの倫理観を想像し、メリーは苦笑いを浮かべた。
 と、思い出す。一体その話が今回の任務と何の関係があるのだろう。

──猛烈にイヤな予感がした。

 察したようにアレクサンドラは立ち止まると、前に出たメリーの肩を掴んだ。

「あの、私これから下水道に潜ることになったりしませんよね?」

 つっかえ棒のように脚を張ったが、景色は変わらず後ろへ流れていた。ガリガリと悲鳴を立てながらブーツの踵が削れているのを感じる。

「しかもよくわからない怪物が居るとか……無いですよね? そんなこと。絶対に行きたくないんですケド」

 肩に食い込む指は万力のように強固で、解こうという気力さえ起きない。こんなことなら、帰ってくる時期をもっと遅くしていたのにとメリーは後悔する。

「っていうか、今どこに向かってるんですか、わたし⁉︎」

 アレクサンドラの口が、やっと開いた。

「被害者のところですよ。白ワニのね」


 メリーが連れてこられたのは院長室だった。応接用のソファーにも、執務机にも、本棚の陰を見渡しても誰も居ない。秘書官のオルレア──先ほど逃亡したまま──が書類を運んでいる姿がないこと以外は、見慣れた景色である。

「それで、被害者の方っていうのは……?」

 まさか、ここで改めて説教が始まるわけではなかろうな、と警戒しつつメリーが訊いた。
 すると、アレクサンドラは机の上に置かれた瓶を手に取り、メリーのほうへ差し出して答えた。

「こちらです」

「?」

 修道院の院長室には似合わない、蒸留酒の瓶だった。川にでも浮かんでいたのか、縞模様のように薄茶色の汚れがついている。そのくすんだガラスの向こうに見えるのは──紙だ。古典的な、瓶詰め手紙らしい。

「ヴィネダ第七東港湾区、チャルノ川沿いでドック新造の工事が進んでいることは知っていますね? その現場で排水溝から流れてくるのを、ちょうど作業員が見つけたのが、こちらです」

 メリーは指を突っ込み、ボトルネックにつっかえる紙を引き出しながら訊いた。

「工事現場? じゃあ、なんで降下教会ウチに?」

「その場で中身を読んだ作業員の方が、あまりの内容に近くの教会へ駆け込んで神父様へ泣きついた、とのことです。その流れで、私達の元へ」

「ええ!?」やっと取り出した紙──予想以上の枚数が針金で束ねられている──をメリーはやや遠巻きに見つめた。「こういうのって、もっとこう……ロマンチックな話とか書いてるものじゃないですか!」

「まあ、空想的ロマンチックではありますね。──目を通せば分かりますが、とある男性の書いたものです。名前は、ベネディクト・フロレク。水道局員、四十二歳。勤め先である都水道局に連絡したところ、五日前に同僚三人とともに仕事へ出たまま行方不明になっていました。筆跡も鑑定済み。おそらく、彼らの最期を書き留めた物に間違いありません」

 「行方不明」や「最期」という不穏な言葉に、メリーは眉を顰める。手元にある紙束が、水分を含んだように重く感じられた。

「当然、内容が虚偽や創作であることを考えて用紙なども鑑定しました。あと、専門の魔術師にも残留思念を視て・・いただいたりね。残念ながら、どれもクリアです。報告書、見ますか?」

 アレクサンドラの差し出した書類を、メリーは無言で受け取った。そこには薬物による幻覚や精神疾患、フロレク氏の狂言である可能性を否定するチェックが並んでいた。さらにその下には、「強度の高い幻覚であれば、本物の記憶との判別は難しい」と断りを入れつつ、手記の内容と読み取った記憶が「概ね一致している」旨が記されていた。書類を捲った二ページ目以降は、手記の複写と残留思念の情景とを対照させた検証結果が並んでいる。パラパラと目を通すと、「白い怪物」や「巨大獣」といった単語が目についた。
 メリーは改めて、報告書から手記へ視線を移した。書く際についたと思わるシミの広がりや、震えているかのような乱れた筆跡が、フロレク氏という人物の生命の残滓のように思えた。

「降下教会として、怪異を野放しにしておくわけにはいきませんね?」

 院長の言葉にメリーは深く溜息をつく。

「言われなくても、こんなの見せられたら行かないワケにいかないじゃないですか」

 メリーは十字を切るとソファーに座り、遺言のような手記に目を落とした。

プロテウス @miesiac16

次の話 →


【CREDO QUIA ABSURDUM】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?