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ココアを飲みながら思い出す

〈エッセイ〉というものが、ただ、個人の思いつきを書いた四方山話ではなく、珠玉の文学作品だと知ったのは、江國香織さんの文章を読んだ時のことだった。

母が毎月買っていた婦人雑誌で、江國香織さんはエッセイを連載していた。雑誌はいつも家にあったので、私も、何の気なく手にとって、ぱらぱらとめくっては、気になるものを読んだりしていた。江國香織さんの連載は、毎月、あまり深い意図もなく読んでいたと思う。

その中の1作が、私の心を鷲づかみにした。

海の青い色をうつしたビー玉みたいな文章だと思った。
美しくて、キラキラしていて、どこか切なくて、現実社会から切り離されたようで。

それはココアを飲みながら、学生時代の、くれあ、という友達のことを思い起こすお話。読みながら、江國香織さんの記憶の中に誘われ、この世のどこにもないファンタジーの世界で、くれあの気配を感じた。読み終わって、現実の世界に戻ってきた時、私にも、くれあ、という友達がいる気がした。

きっとその通りなんだと思う。

誰にでも、くれあ、みたいな友達がいる。冬の日にココアを飲んでいると、そのあったかさと甘さの間に立ち上ってくるような、懐かしい友達。
友達を思い出すと、その友達と一緒だった頃の、幼くて拙くて、でも、何かを創りだそうと精一杯だった頃の自分を思い出す。

私は何度か引っ越しをしているので、場所が変わるたびに、クラスメイトも変わった。幼稚園で2園、小学校を3校。中学と高校は1校ずつ。その時々のクラスメイトのことを思い浮かべると、その時々の自分のことを、より鮮明に思い出す。

江國香織さんのエッセイは、その記憶を描いているんだと思う。くれあ、という友達の記憶は、書き手の個人的なものかもしれない。でも懐かしい友人の記憶は、幼くて拙くて、それでも愛おしくて、心がぎゅっとなるような、その頃の自分の在り様を連れてくる。そういう誰にでも共通する普遍的な感情。

1つ1つの記憶は、自分だけの個人的なものだけれど、懐かしい記憶に触れる時の心の動きはどこか普遍なところがある。心の動き方と言う部分で、他者と分かり合えるところに、人の心の面白さを改めて感じる。

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