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自分の観たいようにしか観られない

5年に1回だけ使うためのメガネを持っている。
5年に1回あるものは、運転免許の更新(ゴールド免許)。
私は、免許の更新をクリアするには足りないけれど、日常生活には裸眼で支障がないくらいの視力で生きている。(車は運転していない。)
裸眼で支障がないと思っているのは自分だけで、もしかしたら、何かを見落としながら生きているのかもしれない。

なのだけれど、ここ数日、メガネに少し出番がある。
花粉から目を守ってくれることを期待して、メガネをかけてみた。花粉専用でも何でもないが、それでも、多少は役にたっている気がする。

メガネをかけて道を歩くと、住居表示とか看板とかが、見える。
普段、同じ道を歩いている時は、目には入っていても、くっきりと見えていないから、ぼんやりした風景として、特段気にも留めずにいたのだろう。でも、メガネをかけると、それらが読めるようになるので、存在が認識されて、目に入ってくる。おもしろい。

私は、小学校くらいから「やや近視だけれど、裸眼でも日常生活には支障がないし」というまま過ごしてきたので、たぶん、その視力の生活に、知らずにチューニングされていることが多々あるんだと思う。(テニスも、これで、できる。上手ではないけれど、それは、視力の責任ではなくて、運動神経の責任。)
乗り換えの複雑な駅では、「道案内の標識」を見つけるのが早い。そして、読めていなくても、だいたい雰囲気で、書かれている内容が分かる。

必要なものをぼんやりとした視界で探すことができる一方、その時必要がないものは、全然認識していなかった、ということが、メガネをかけて歩いてみて分かった。
分かったからと言って、何かが改善できる訳でもないのだけれど。

人の目が持つ「必要なものだけを見るチカラ」はスゴイと思う。例えば、素晴らしい景色を見て、これを残したいと思い、写真を撮ったりすると、自分が思ってもいなかったものが写り込んでいることに驚く。電線とか、まわりの人とか。自分が景色を見ている時、不要なものは無意識のうちに画面から取り除いているんだよね。

この前、自分が音をどう聴いているのかに意識を向けた時も、実際の音と、認識する音との間に違いがあることが面白かった。

視覚も一緒だな。実際の情景と、目が認識している情景は、一緒ではない。自分の認識次第で、見える景色が変わる。自分が詳しいものを見る時には細部まで見えているのに、よく知らないものだとぼんやりとしか見えない場合もある。

視覚も聴覚も、そして、きっと他の感覚についても、自分が世界をどのようにとらえるのかは、自分の認知次第で変わるんだな。
世界を観たいようにしか、観ていないんだよね。

自分が観ている、聴いている、感じている世界というのは、自分の内面によって随分と脚色される。そのことに自覚的でありたいな、と思った。

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