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がんばれるかどうかも 1人1人ちがう

キッザニアに行ったけれど楽しめなかった、というSNSの記事を読んだ。
そんな風に言われることは、初めての経験ではない。当然ながらキッザニアを楽しめる人も楽しめない人もいる。楽しくない、と直接言われたこともあるし、コンセプトについての批判もたくさん見てきたし、受けてきた。
でも、そのSNSは、何だか妙に気になってしまった。

「楽しめなかった」内容を具体的に書いて、書き手の方が偶然このnoteを観た時に複雑な気持ちになっては申し訳ないので、具体的には書くのはやめることにする。ただ、なぜだか気になって、ずっとずっと、そこに書かれたことを考えていた。

「キッザニアが楽しめなかった」ということと、ちょっと違うところから話を始める。
キッザニアには「がんばったらできた!」というエピソードが、たくさんある。「新聞記事を書くための取材に行って、最初はどきどきして声をかけられなかったけれど、勇気を出して話しかけてみて、ちゃんと取材することができた!」というような話。30分の体験の中でできる「がんばり」って、「勇気を出す」「緊張を乗り越える」「苦手だったけれどチャレンジする」「一生懸命やる」というような、〈自分に克つ〉というようなものが多い。

私たちスタッフも、そんな風に「がんばれる姿」を良きものとして見ていた。本当の仕事として振舞うスタッフの姿勢や、子どもたちを働く仲間として尊重する接し方や、本物の体験だと感じられるようなリアルな環境が、子どもたちの「がんばりたい」気持ちを引き出す助けになっていると考えていた。実際そうだと思う。

ただ、今になってみれば、がんばりたくても、がんばれない人もいる、ということを、あの頃の私は、ちゃんと理解できていなかったなぁ、とも、気づく。

キッザニアの会社の社員ではなくなってから、保育のことを学んだり、保育の現場に近いところでの仕事が増えた。特別な日の子どもたちに、いつもと違う体験を提供するのではなく、日常の子どもたちと毎日毎日繰り返し出会うような関わり方になった。子ども1人1人と、長い期間過ごすことができるようになり、本当に1人1人、こんなにも違うということを実感した。

自分なりのこだわりが強かったり、自分の決めた通りのルーティーンじゃないとイヤになっちゃう人もいた。初めてのものと出会った時に、待ちきれずにすぐに手を出す人もいたけれど、ものすごく慎重で自分が納得するまで決して近寄らない人もいた。

そんな人たちの中には、自分自身が納得しないこと、やりたいと思えないことは、絶対「できない」人もいた。

それは、イヤでもガマンすればいいのに、とか、がんばればできる、とか、そういう次元のこととは全然違う。本人の努力の及ばないところにある、何か。

「取材に行って、最初はどきどきして声をかけられなかったけれど、勇気を出して話しかけてみて・・・」というエピソードで言えば、初めての人と話すことができない人は、たぶん、ずっとずっとずっと待っていても、できない。それは、その人自身の「がんばる」を超えたところにあるから。

そういう子もいるんだよね、ということは、分かってきたのだけれど、そんな時、どんな風に接したらいいのかは、正直に言えば、まだ、よく分からない。
自分のがんばりを超えたところにある「できない」に向き合い続けても苦しいし、自分を否定する気持ちが湧き出てくるばかりだから、「いいよいいよ、無理しなくていいよ。あなたは、別の方法で取材しよう」って提案すればいいのだろう、とは考える。
でも、ごく稀に、いつもと違う環境の中で、いつもはできないことが、ひょい、とできるようになる場合もある。ちょっと環境を変えてみるとか、期待しないでじっと待つとか、そういうことが、何か変化をもたらし、その人にとっての新しい可能性をひらくことができるのかもしれないなぁ、とも望みを持ってしまう。

だから、無理をしないで別のやりかたを提示することが正解なのか、ひょっとしたタイミングでできるかもしれないことを期待して待ってみることが正解なのか、いつも、どうしたらいいのか分からなくなる。

もしかしたらできるかもしれない、と期待する想いそのものが、子どもにとってプレッシャーになる、という側面もあるかもしれない。

どうするのがいいのか、コレ、と決まりきった正解はないのだと思う。保護者にだって分からないんじゃないかな。保護者には、長い期間向き合い続けて形成されたその子に対する固定概念と、こうなったらいいなという期待との両方があるから、むしろ判断をすることが難しい場合もあるだろう。私も、我が子たちに関することが一番難しい、って思うもの。

そうか、SNSの記事が妙に気になったのは、「それじゃあ、どうしたらよかったんだろう」の結論がうまく出せなかったからかもしれない。
15年前の自分だったら、どんな風に応じただろうか。そして、今の私だったら、何ができるだろうか。

もちろん、そこに答えはない。子どもたちと、どんな風に向き合えばいいのかと考え続けていくことが、子ども1人1人に、向き合える自分になることだと思って、今日も考えていくしかない。

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