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体験に必要なものは わくわく「だけ」だよ

「体験格差」という言葉をよく見聞きするようになったのは、昨年からでしょうか。
子どもたちが直面している「相対的貧困」についての問題提起だと認識しています。
主に経済的な事情から、例えば、「家族で外食」「習い事」「旅行」など、ある家庭にとっては当たり前のことを経験することのできない子どもたちが一定数いるそうです。(例えば、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンの調査では、世帯年収が300万円以下の家庭の子どもの約3人に1人は学校外の体験機会が何もない、などの結果が出ているそうです。プレスリリース/CFCのサイト
そして、そのような一見遊びのようにも見える「体験」こそが、子どもの育ちに必要である、というメッセージとともに、このような「体験格差」を解消しよう、という取り組みも立ち上がっています。
多くの子どもたちが直面しながらも、当事者からはなかなか言いずらい(贅沢や余暇だと思われがち)このような課題に向けて、声をあげ、行動を起こす人たちに本当に頭が下がる思いです。

さて。
ここから、同じ「子どもの体験」という言葉を使いながらも、まったく話題が変わります。

講演や記事などで、保護者の方たちにメッセージを伝えたり、質問に答えたりする場面が多々あります。そうすると「色々な体験をさせなければいけないと思うが、何をすればいいのか」「自然体験が必要だと聞いたが、いつから始めればいいのか」などの保護者の声をしばしば耳にします。〈特別な「体験」をさせなければならない〉というプレッシャーを受け取っている様子を、最近、強く感るようになりました。(もちろんコロナが落ち着いた、という時期とも関わりはあると思います。この3年間、子どもたちに充分な体験の場を作ってあげられなかった、という焦りがある、という声も耳にします。)

経済的にも、時間的にも、充分な余裕のない世帯の子どもたちの抱えている問題を伝えようとした「体験格差」という言葉が伝わりやすかったために、心配する必要のない人たちのもとにも、一部だけが誇張された形で過剰に届いてはいないか、ということを、少々心配しています。

つまり〈子どもの頃の体験は、やる気・生きがい・思いやり・人間関係構築などの「生きる力」に影響するから、親は子どもに多くの体験を提供しなくてはいけない。〉という風に。

でも、「体験」って何でしょうか。

私は、一見何てことのないように思える平凡な日常の全てが「体験」だと思っています。
保育園/幼稚園や学校への道も、毎日違います。空の雲も、毎日違います。

特別な場所に行ったり、特別な習い事をしなくても、子どもにとっての「初めて」は生活の中にあふれています。プールに行けなくてもお風呂場で水遊びはできる。特別なごちそうでなくても自分で握ったおにぎりはおいしい。リビングにレジャーシートを広げればピクニックごっこになるし、いつもとは違う公園に行くだけでも子どもには大冒険です。

今日は何で楽しもうかと考えて、日常にちょっぴりの〈あそび心〉を加える。そういうことの積み重ねが、子どもたちにとって、何よりの体験であると思うのです。金銭的にも、時間的にも、無理をしなくてもいい。必要なのは、日常を楽しもうとする「わくわく」する気持ちだけだと思うのです。

そして、日常にはどんな楽しみが見つけられるのか、どんな遊びを作りだせるのか・・・そういう「わくわく」のヒントをお伝えすることを、これから、ますます大事にしていきたいと考えています。

子どもたちの育ちに「豊かな体験」は確かに必要です。でも、「豊かな体験」って言うのは、決して特別なことではありません。日常の、ちょっとした体験の積み重ねこそが豊かさなんですよね。
必要なことは、わくわく「だけ」だと、思っています。

一緒に、わくわくしましょう。

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