不惑の歳の60日前に人生棚卸し

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愛する息子たちへ

これは遺言のつもりで書く。
お母さんが生涯をかけて君たちに伝えたかったことをここに記す。

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「わたしは何者か?」

思い返せば、この問いをずっと持ちながら生きてきた。

40歳手前になって、ようやくひとつの解に辿り着こうとしている。

それは、『何者でもないし、何者にでもなれる』である。


なぜ、このような奇妙な問いと、奇妙な答えを人生の柱に据えてきたのか。

今からそれを記そうと思う。

おそらく、同じような思いを持つ方は世の中に多くいるはずである。

その方たちの心に、一筋の光をもたらすことができたら幸いである。

「1対多」の長テーブル

わたしの人生で最初、原体験とも言える記憶は「1対多の長テーブル」だ。

3歳、保育園の頃。

理由はよく覚えていないが、女の子のグループに入れてもらえなかった時期がある。仲間はずれだ。


毎日おやつの時間になると、皆が長テーブルに集まる。思い思いの場所に座る。

ところがわたしの隣には、女の子は誰も座らなかった。

女の子たちは皆、長テーブルの向こう側にきゅっと固まって座っていた。

わたしの手元には、お茶を飲むための自分のコップがポツンとひとつ。

向こう側には、女の子たちのいろとりどりのコップが並ぶ。


とても悲しかった。なぜ、自分は嫌われるのだろうと思った。

悲しくて悲しくて、本当は泣きたかったけれど、グッと堪えた。なぜだか分からないが、「泣いたら負け」だと思ったからだ。

そしてわたしは強がった。

「女はすぐに泣くから嫌いだ」と言った。

長テーブルの向こう側の女の子たちのようには、絶対にならないと誓った。


わたしは髪をショートカットにした。スカートを履くのを断固拒否した。バービーやリカちゃん人形ではなく、戦隊ヒーローの武器のおもちゃを欲しがった。

そして保育園では、男の子の友達とばかり遊ぶようになった。


わたしは3歳の頃に、いわゆる「女性的な弱さ、繊細さ」を封じ込めたのだった。

本当は、自分の中にもそういった面があるとわかっていたのに。


わたしは「女」であるが、「女」でない。かと言って、「男」でもない。ならば何者なのだろうか?

もちろん、幼少期だった当時は、この「問い」を言語化できるはずもない。

しかし今思い返せば、ここから先の人生のテーマとも言える「問い」が、この時点で立っていたことになる。

「強さ」の賞賛

1983年生まれのわたしの家庭は、いわゆる「昭和的価値観」がベースにあった。

サザエさんやちびまる子ちゃんで描かれているように、「男は外で働いて、女は家庭を守る」が当たり前だった。

今でこそ家事が「見えない無償労働」としてフォーカスされつつあるが、わたしの幼少期の頃の家庭では、祖父や父が「お茶」と言えば、祖母や母が自分の手を止めてでもお茶を差し出すと言った光景が日常茶飯事だった。


わたしにはその様子が、どことなく歪んで見えた。

男女が協力しているというよりは、男が女を都合の良い駒のように扱っていると感じた。

実際に、母が祖父に対して「わたしはあんたの召使いじゃない!」と言い放ったこともあったようだ。

それくらい、ヒエラルキーが形づくられた家庭だった。


さて、そんな家庭で、『「女」であるが「女」でない。かと言って「男」でもないわたし』がどう扱われてきたかを記す。

とにかくわたしは、「強さ」を賞賛された。

ここで言う「強さ」とは、男性性的強さのことである。

転んで怪我をしても泣かないわたしは、「強いね!すごいね!」と褒められた。

手の指にばい菌が入り、麻酔なしでメスを入れて膿を出したときも泣かなかった(歯を食いしばって耐えた)わたしは「男の子より強いね!」と褒められた。

戦隊モノのおもちゃを振り回すわたしは、「お前は性別を間違えて生まれてきたな!」と、なぜか誇らしげに褒められた。


いつしか、「強くあること」が、わたしの存在証明になっていた。

弱さを見せては生きていけない。
負けてはならない。
強くあらねば。

これがわたしの中での、強い行動動機となった。

手に入れては消えていく「わたしらしさ」

「わたしは強い人間である」

中学に入る頃には、わたしはわたしをこのように定義づけていた。

このときの「強さ」とは、相対的強さのことである。

つまり、他者と比較して強いか(秀でているか)どうか?が重要だった。

その根底には、「女というだけで、社会から召使いのように扱われてたまるか!!」といった、強烈な反骨精神があった。


わたしは、強さを追い求めた。

中学の定期テストでは、学年トップクラスの成績を3年間維持した。

そして一部の成績優秀者しか進学できない専門学校へ進んだ。

専門学校時代はバンドのボーカルを務め、大勢の前で堂々と歌う姿を披露した。

バイトでは能力値の最も高いAAA(トリプルエー)という位を獲得した。接客コンテストでは全国大会に行き、そのうち店長代理として店を切り盛りするまでになった。

就職先の呉服販売店では、全国店舗の中で年間売り上げ1位をとった。


わたしは、強いのだ。
強いことこそが、わたしがこの社会にいられる証なのだ。

そうして手に入れ続けてきた、

「頭のいいわたし」
「仕事ができるわたし」
「〇〇ナンバーワン(上位)のわたし」

という数々の「わたしらしさ」ではあるが、一定程度を突き詰めてしまうと、途端に自分の中から熱が冷めていくのが分かった。


『わたしは何者か?』

この答えだと思って手に入れた称号なのに、何か違う気がする。

”もっと別の場所”に、答えはあるのだろうか。

思い返せば、転職を繰り返したのも、このような問いがあったからだった。


そのうち20代も半ばになり、伴侶ができた。

結婚と同時に、苗字が変わった。

子どもも授かった。

子どもが生まれると「〇〇ちゃんのお母さん」と呼ばれるようになった。


結婚生活と子育ては、とてもとても幸せだった。

しかし同時に、「自分の名前」という、わたしらしさの根源と言えるものも見えなくなっていった。

ゼロリセット

事態は急変した。

結婚から7年目の春に、わたしは離婚届に判を押していた。

離婚を決めてから、わずか1週間後のことだった。

表面的に起きた事象は、元夫の金銭トラブルだった。しかし、彼だけが悪いわけではない。

わたしがまたしても「強さ」を追い求めたことが、夫婦関係にじわじわと亀裂を生んだ。その結果だった。


結婚時代に専業主婦だったわたしは、3.11の東日本大震災にて「自分の無力さ」を痛感した。

これまで築いてきた数々の称号(わたしらしさ)は、ただの思い出話と化していたからだ。

今のわたしには、何もない。
もしも同じような災害で夫を失ったとしたら、どうやって生きていくのか。
万が一に備えて、経済力を付けなければ・・・。


当時そう考えたわたしは、こともあろうにネットワークビジネスに手を出した。

他者と比較して強いか?(秀でているか)というスイッチが自動的に押されたのであろう。パートやアルバイトという選択肢は色褪せて見えた。

新しい「強さ(わたしらしさ)」を求めたのだ。


なんとかして結果を出そうと血眼になるわたしを、元夫は諫めた。

でもわたしは、聞く耳を持たなかった。

そうこうするうちに、夫婦関係は表面的なものになり、元夫の感情の行き場は金銭トラブルという形に変わった。


わたしと元夫は、夫婦関係を解消した。

わたしは無職のまま、子ども2人の親権を得た。

31歳。人生がゼロリセットされたような感覚だった。

自己の中の「多様性」

とにかく子どもを食わせなければならない。

ただしこの「ねばならない」は、後ろ向きな感情ではない。むしろ、使命感だ。

「生きててくれるだけでありがたい」

腹の底からそう思える存在を産み育てる日々は、いつも喜びに溢れている。


さて、人生をゼロリセットしたわたしが「食い扶持」として次に選んだのが「ブログアフィリエイト」だった。

ここでも一般的な職の選択肢を選ばないところは、全く仕様がないと言える。もはや一生ついて回る心のクセである。


それからわたしは1年間休まず毎日、3000文字以上のブログを書き続けた。

もちろん、当初は稼ぐためだった。実際に、食うに困らない分くらいは稼げた。


しかし、途中から「感覚」が変わった。

文章を書いていくうちに、「自分の中にいる複数人の自分」に気がつくようになっていった。

それを発見するのが、面白くなってきたのだ。


当時のブログには、この記事のように自分の体験談を記すことが多かった。

そのときの情景や感情を思い出しながら書いていると、多様な自分に出会えた。

強さにこだわる自分(←これはデフォルト)
優しさや慈しみを持った自分
愛に溢れた自分
メソメソしてる弱い自分
寂しがりやな自分
不安や恐怖に慄く自分
甘えん坊な自分
自分勝手な自分
・・・・
・・・・
・・・・


今でもそうだが、たまに文章を書きながら涙が止まらなくなることがある。

それは悲しみから来るものではなく、「隠れていた自分」に気づけたときの喜びの涙である。


弱さを見せては生きていけない。
負けてはならない。
強くあらねば。

そうやって自分というものを固定化しようとしていた。

「わたしは何者か?」という問いに決着をつけるべく、分かりやすい「強さ」を求めた。


しかし実は、わたしの中にはたくさんのわたしがいた。

どれか一つに絞るのが惜しいほどに、多様だった。豊かだった。

ようやくそのことに、気づいた。


ブログアフィリエイトから始まったわたしの物書き人生は、今年で9年目を迎える。

今ではありがたいことに、コピーライターやWebディレクターとしてお仕事をいただいている。

そればかりか、最近ではセミナーの事務局を務めたり、時には自分が登壇したり、チームのマネジメントに携わったりと、もはや何屋か固定化できない。


ここまで紆余曲折あったが、冒頭述べた通り、人生を重ねてきたことでようやく解が見えてきた。

「わたしは何者か?」

『何者でもないし、何者にでもなれる』のである。

人生の「解釈力」を上げる

わたしは次の世代の子どもたちに「人生で重要なのは”解釈力”だ」と伝えたい。

「道すがら何が起きても、幸せにつながる」ということを、この身を持って示す。


わたし自身、

3歳の頃に仲間はずれにならなかったら、
昭和的価値観の家庭で育たなかったら、
わかりやすい強さを求めて失ってを繰り返さなかったら、

『何者でもないし、何者にでもなれる』の豊かさに気づいていなかっただろう。

これまでわたしの人生に登場してくださった方たちには、感謝しかない。


「あの時の苦しかった出来事」は、同時に、「幸せへのフラグ」でもある。

陰と陽、どちらの解釈もできる。もしかしたら、他にもあるかもしれない。そして解釈次第で、過去が変わる。

このことを、子どもたちには伝えたいし、次の世代にも伝えていってほしい。


現代は、とにかく「明確な答えを早く出すこと」が求められる。

プラスかマイナスか、
正しいか間違いか、
勝つか負けるか、
ゼロかイチか、
YesかNoか、
この中から正しい答えを”一つだけ”選べ。

確かにこれらも重要ではあるが、人生に深みと充足感をもたらす本質的な答えは、その間のファジーな領域にあるのではないかと思う。そして、答えの輪郭が見えるまでには時間を要する。

しかし、探究して見つけたときの喜びはひとしおである。

解釈力があれば、人生はさまざまな色合いで輝く。


話は転じるが、最近、中学生の長男がこんなことを言っていた。

「お母さん、俺は、この世は黒か白じゃなくて、グレーでできていると思う」

と。

色の例えはさておき、息子にはなんとなく伝わってきているように思う。

それは素直に嬉しいし、彼にはこれからもっとたくさんの「酸いも甘いも」を体験してほしい。


必ず、未来は幸せだから。


さて、散文的になってしまったが、愛する息子たちへ遺言のつもりで書いた手記はここで閉じようと思う。


ここまで文字を追ってくださった方、本当にありがとうございます。

明日もわたしはしぶとく生きますので、どうかよろしくお願い申し上げます。


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