見出し画像

vol.2 安らぎ

「うちの主人、痴呆症なんです…」

その頃はまだ、脳の萎縮症状を表すことを認知症とは言われていない時代だった。
お客様の第一声が放たれた瞬間、私の中で様々なパーツが浮かび上がり、それが、まるでルービックキューブの色が揃ったように重なり合った。

「最近は一人で出歩かせるのが不安だから、ヘルパーさんが来てくれている時にだけ、私は家を空けられるんですけど…それ以外はずっと主人と二人きり。まともなら二人で居ても楽しいけれど、いつも戦争が終わった頃の自分に戻っているようで、その話しばかりしてまして…聞いている私は悲しくなってきますし、毎日になると、正直、うんざりしちゃう時もあるんです。そんな風に思うなんてお恥ずかしい限りですよね」

お客様の話を聴きながら、私は〝きみちゃん〟のことを思い出していた。
私の祖母が寝たきりになり、家族では支えられなくなった時に入った、老人病院の隣のベッドにいた方だ。
祖母は盲目で、私は幼い頃から祖母の目の代わりを務めさせられた。

私に身に付いた観察力は、祖母のおかげだと思っている。

私は度々病院に、祖母の様子を見に行っていた。長年住んだ家から離れ、違う場所での寝たきり生活は不安で仕方ないに違いない。
そう思うと様子が気になって仕方なかったのだ。

「ばあちゃん、暇やろ?」

私は九州出身、祖母は広島。少しの間
方言での語りになります。

私が言うと、

「寝てばっかりで身体のあちこちに床ずれが出来て、痒くて痛くてたまらんわい」

と、行く度に祖母は言っていた。

今は床ずれを、褥瘡(じょくそう)と言うそうだ。昔は、今のように介護職も普及されておらずクオリティも高くない。ましてや病院で患者として扱われる為、看護師が細かい体位変換をやることなど考えられていなかったと思う。

祖母の背中や腰を見ると、皮膚はただれ、目を塞ぎたくなるくらい酷い状態だった。

「薬、塗っちゃろうね」

私は、そう言って身体を綺麗にし『早く治りますように』と、願いながら薬を塗っていた。そして、時間をかけて塗りながら、祖母の話を聴くのだ。

〝無知〟とは時に幸せなもので、薬を塗れば治ると本気で思っていた昔の私に言ってやりたい。
『それくらいじゃ治らないよ』と…

幼い頃は私が祖母に話す方だったが、大きくなると祖母の話を私が聴くようになっていた。

その時の話は専ら〝きみちゃん〟のこと。

祖母が病院に入った当初、明るく、良く話すおばあちゃんが隣のベッドに居り、私は少し安心した。しかし、その安心は束の間だった。何故なら、〝きみちゃん〟は、痴呆症だったのだ。

「助けてー。助けてー」

病室に入った私は、祖母に声を掛けようとして絶句した。
カーテン越しに覗け見えた〝きみちゃん〟が、ベッドの手すりに両手、両足を括り付けられて叫んでいるのだ。
私は、眉間にシワを寄せながら祖母に尋ねた。

「きみちゃんどうしたと?」

すると祖母が、

「さっきまで大変やったたい。きみちゃんがオムツに手を突っ込んで、大便を壁に塗すくりつけてまわっとるんよ。部屋の外までやったらしいたい。皆んなで大騒ぎして今、お風呂から帰って来たとこよ」

と、教えてくれた。
その日の〝きみちゃん〟は、最悪のコンディションだったようだ。
不可解な行動を前々から祖母より聞いていた私は、『あら、あら…』とは思ったが、その行動については大して驚かなかった。
それよりも、人が身動きが出来ないように縛られているのを目の当たりにし、見てはならないものを見てしまったような気になった。
そして、隣から聞こえてくる叫び声にどう答えて良いか分からず、いつもより短い時間しか滞在せず、逃げるように帰ったのを覚えている。

祖母の話しによると、〝きみちゃん〟は、調子の良い時もあるようだ。
そんな時は、

「奥さん、今日はいい天気よ」

などと、目の見えない祖母に教えてくれたりしているらしい。
けれども、ひとたび様子が変わると、普通では理解出来ないようなとんでもないことをするのだそうだ。
私は当時、痴呆症がなんなのかも分からなかったが、祖母の話を聴く限り、大変な病気であることだけは認識出来ていた。
徘徊、排泄物のばら撒き、時には、排泄物を食べる時もあった。
そんな出来事を横のベッドで聞く以外の日課がない祖母の話しを、私は、行く度に聴くことになるのだった。

その痴呆症の話が、お客様から出るとは…

『痴呆症=きみちゃん』

以外の知識のない私は、最悪のコンディションの〝きみちゃん〟想像した。
しかし、話しを聴いていると〝きみちゃん〟の症状とはどこか違っているようだ。
その時の私は、認知症の症状に種類があることを知らない。

「痴呆症って、ついさっきのことを忘れたり、昨日のことも思い出せないけれども、身体は元気でしょう…主人をたまには外に連れ出してあげなければならないとは思っているんですけど、知らない人が見たら怖がるんじゃないかと思って、家にこもりっきりにさせてしまって…」

お客様は、目を逸らすようにそう言った。大変さを伝えたかったのか、痴呆症がどう言うものなのか要点を話してくれたが、祖母から〝きみちゃん〟の話しをたくさん聞いていた私は、病状の想像が何となくついた。
と同時に、お客様が何を求め、何に気持ちを揺り動かされているのかを感じていた。
私は、ご主人に対する自分の感情を〝恥ずかしい〟と言ったお客様へは何も言わず、

「でしたら、うちにお連れになったら如何ですか?」

と、提案してみた。

「そんな、そんな…とんでもない。ご迷惑おかけ出来ません」

と、首を横に振るお客様。

「無理にとは申し上げませんが、ご主人様も気分転換になられればと思いまして。
私達のことはお気になさらずに、◯◯様の思うようになさってください」

と、私は言った。
お客様が誰であろうと、どうであろうと、百貨店に行く選択をするのはお客様だ。
私達は、その来店されたお客様へ時と場合によって、販売員、そして百貨店で勤める者の役割を努めれば良いだけだ。
勿論、商売を軸において。
偽善のように聞こえるかもしれないが、その時の私は、本気でそう思っていた。
そう…
本気じゃ無ければ、出来ないことでもあるが。

「ありがとう…身内以外の人に主人の話しをしたの初めてなんです。聴いてもらっただけでもなんだか、胸のつかえが少し取れたように楽になりました」

と、お客様が言ったので、

「とんでもありません。大事なお話しを聴かせていただき、こちらの方が有難いです」

私が言うと、

「主人は綺麗な物が好きでしたの。宝石もその一つ。二人で海を見に行って夕日を眺めていた時に、〝まるで宝石が輝いているようだね〟って。もちろん、戦争が終わって随分経ってからのことなんですが。
そしてある時、主人がルビーの指輪を贈ってくれたんです。私、嬉しくて、嬉しくて…」

お客様の話しは続く。

「それからだんだん裕福な時代になって来ましたでしょう。私もお勤めをしていたから自分で好きな物を買うことも出来たんですけど、宝石だけは自分で買わないようにして、主人からのプレゼントでいただけるのを楽しみにしてまして…
それで、いずれ、誕生石の良いのをねだるつもりで。私の誕生石は、そんなにお高いものじゃないんですけど。
あら?こんなこと言っては失礼ですね。
すみません…」

お客様は私を見て謝り、話しを続けた。

「誕生石は守り石になるって言うじゃないですか?だから、最後まで守ってもらえるように、二人がおじいちゃんとおばあちゃんになった時に買ってもらおうって思ってたんです」

なるほど…

話しを聴きながら、その日購入してもらったペリドットの指輪を思い出した私は少し慌てたが、平行して、ルビーの攻略法を見つけてしまった。そんな自分の商売に対する貪欲さにも驚いた。

出来ないことで悩むより、出来ることを探すこと

私が18歳の時に亡くなった祖母の教えの一つだ。目の見えない祖母が生きていく上で必要な時に私の目を借りる。
共に歩んだ私に、身をもって教えてくれたことだ。そして祖母は、かけがえのない贈り物をくれた。杖代わりだった私に、躓いたときや転んだときに出てくる〝気づき〟と言う名の魔法の杖を…

私の考えたことが伝わったのか、

「あ、今日の指輪はデザインが気に入ったから買ったんです。ペリドットは買わないなんて変なこと言うから気にしますよね?ごめんなさい。でも、もう良いんです。
本当は…  私は今、素敵な宝石に囲まれて安らげてますから」

更に続けて、

「私が初めに買わせていただいた指輪を広告で見た時、なんだか、海を思い出したんです。素敵なデザインだなぁって。
そうしたら、本当に海をイメージして先生がお作りになったとお伺いして、驚きました。それ以外のどの作品も先生がお作りになったものは大変素晴らしく、夜寝る前になると枕元で、宝石箱を開けては宝石を眺めているんですよ」

少しずつ、お客様の表情が和らいできた。

「それに、主人が買ってくれてると思えば…ね? ウフフ…」

お客様は私にウィンクでもするように、茶目っ気に笑った。私は何も言わず、お客様の顔を見つめながら微笑んだ。

「何だか、たくさんお話ししてしまって、ごめんなさい。もう、こんな時間。帰らないと…」

気がつくと、いつもの帰りの時間になっていた。
お客様の滞在時間は、買い物の時間を含めても凡そ1時間半くらいだ。
その日も勿論、同じ時間。
けれども、私は随分と長い時間一緒に居たような気がしていた。
帰る姿を見送っていると、お客様は自分の姿がこちらから見えなくなる地点で振り返り、手を振った。
心なしか、表情が晴れやかに見えた。

お客様は宝石を通してご主人との素晴らしい日々の思い出と共に過ごし、安らぐ気持ちを自分で作りながら現実と向き合っているのだろう。

私はまた、偉大な方と出会っていたのだった…


〜vol.2 最終章に続く〜



百貨店を舞台に、出逢えたお客様に販売を通して教えてもらった数々の〝気づき〟による自身の成長記録と、歳を重ねた方々の生き方を綴っています。出会った順で更新していますので、私自身が少しずつ成長していく変化を楽しみながら百貨店の魅力も感じて頂けたら幸いです。 日曜日に更新します!