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【異文化カルチャーシェア活・番外編】プロレス編その2

チェーンナーさん発のこの企画、結構幅広く拡散されていますね🎵👇

私も2回、記事を投稿させて頂き、その後バトンを回したのですが、回したお二方に気付いてもらえない悲劇を味わい、責任を取って回したバトンを引き取って、👇の記事を前回アップいたしました。

すると自分で言うのもナンですが、昔のプロレスが懐かしい♫と、皆様からお褒め頂いたので、柳の下に2匹目のドジョウを求め、その2を書いてみることとしました(*´ω`*)


①「スタン・ハンセンとジャイアント馬場」

前回はスタン・ハンセンが新日本プロレスから全日本プロレスに移籍し、ジャイアント馬場と年間ベストバウトを取る試合を繰り広げた…まで書いたのですが、ハンセンはその後の述懐で、

「ババには俺のラリアットはあまり効かなかった」

と言っています。

何故かというと、前にいた新日本プロレスでは、ハンセンが対戦相手をロープに飛ばしても、帰ってくるのが早く、素早くラリアットを放つことが出来たんですが、全日本プロレスの選手は動きが新日本よりも、どうしても遅かったんですね。

全日本プロレスでラリアットの被害によく遭ったレスラーは、阿修羅・原、大熊元司、天龍源一郎のお三方じゃないかと思います…。

さて馬場さんは身長が高くて、動きがゆっくりだったため、ハンセンがラリアットを打とうとしてロープに飛ばしても、ハンセンがラリアットを放つタイミングが掴めないんですね。
身長が高いというのも、ラリアットの急所である相手(馬場さん)の喉元に当てるのが難しいので、首よりもちょっと下側になっちゃうんですね。
そのためジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの試合で、ラリアットで決着が付いた(馬場さんが負けた)試合はありません。
昭和ですので、リングアウトか上手いことジョー樋口が失神しての反則か、このどっちかでの結末が多かったです。

初めて馬場さんとハンセンのシングルマッチで、3カウントで決着が付いたのは1984年7月31日!(のはずです💦)
初対決から2年半ほど経ってますね。その試合がコチラです。

実況陣が、馬場はあとがないとか、馬場の頑張りに涙が出るとか、もうこれで引退するかのような実況をしていますが、最後はクルリと丸め込んで3カウント。
当時14歳だった私、結末を知らずにこの中継を見たので、馬場さんが勝った時には大喜びしましたよ\(^o^)/

その後1年間、PWFヘビー級選手権を馬場さんは保持し続けるんですが、ほぼ1年後、ハンセンにバックドロップで3カウントを奪われ、負けてしまいます。

一説では(というか定説になってますが)この試合での敗退を機に、馬場さんは第一線から身を引き、鶴田、天龍、長州(この当時新日本から移籍していた)の世代でベルトを争えとばかりに、ベルト戦線には絡まなくなりました。
テレビ解説なんかでは、後にPWF王者になる長州に挑んでやるとか、意欲があるようなことを言っていたような気がするんですけどね(;^_^A

さてこの後は本当にベルト戦線から撤退し、馬場さんとハンセンのリング上の絡みは激減するんですが、年末の最強タッグには馬場さんはまだエントリーしていたので、否応なしにハンセン組と当たります。

その中でも私はビデオテープが擦り切れるほど何度も何度も見た試合が、平成元年の最強タッグ「馬場&木村vs天龍&ハンセン」です。

タッグマッチとは言いつつ、前半に天龍さんが馬場さんに奇襲を仕掛け、戦闘不能に追いやってしまいます。
そして2人掛かりでラッシャーさん1人を8分ほど痛めつけるんですが、奇襲でダウンしていた馬場さんが復活してラッシャーさんと交代後、今度は馬場さんが1人で12分ほど天龍さん、ハンセンと互角にやり合います。
最後は力尽きて天龍さんに敗れ、初めて馬場さんが日本人にピンフォールを奪われた試合として語り継がれています。

この年以降、馬場さんは最強タッグでアンドレと組んだり、小橋と組んだりして、どこまで優勝する気があるのか掴み切れない態度だったんですけど、平成5年の最強タッグで異変が起きました。
当初のハンセンのパートナー、テッド・デビアスが、首の怪我(ということになっている)で緊急帰国し、パートナーを失ったハンセンが、馬場さんをパートナーに指名したんです。
平成5年の最強タッグは、元々の発表メンバーには馬場さんは入っておらず、最強タッグからも身を引くようなことを言っていたんですね。

…ここからは私の推測ですが、元々デビアスは最強タッグに出るつもりはなく、最初からハンセン&馬場組というのは決まっていた、だが大義名分が立たないので、デビアスが緊急帰国したことにして、ハンセンが馬場さんを指名したというストーリーを作ったのではないかと…

ともかくこの馬場&ハンセン組というのはそれまでの因縁を考えると凄いことで、やや落ち目だったハンセンの人気も再燃、以降2001年に引退するまで、基本的には外国陣営ですが、誰とでもタッグを組むようになり、若手の教育係(特に大森隆男)みたいなポジションになりました。

ジャイアント馬場さんはご承知の通り、1999年1月31日に亡くなられたので、馬場さんとハンセンの繋がりは切れてしまったんですが、ハンセンの馬場さんについての思い出は、全レスラーの中で一番足の力が強かった、と後に述べています。
馬場さんの足が強いのは、実は長州さんも述懐していますので、本当なんでしょうね。


②「長州力の反逆」

さて、その長州力の反逆です。
スタン・ハンセンに抜けられた新日本プロレスは、日本人vs外国人の従来路線から、日本人対決へと舵を切っていきます。

その第一弾が、国際軍団の徹底した悪役化です。
1981.9.23の伝説の田コロで、「こんばんは」と真面目に挨拶したラッシャー木村さんを悪役にしちゃうんですね。
1982年はとにかくテレビ生中継は「猪木&藤波vs木村&浜口」ばかりでした(苦笑)

その中で猪木さんが色んな病気の影響で長期欠場することになり、代わりにハルク・ホーガンが日本陣営に加入し、ホーガン&藤波組とかが頻繁に見られ、面白かったのを覚えています。
初代タイガーともタッグを組んだのかな?

猪木さんも出たり出なかったりの状態から、秋にはシリーズに帯同出来るように回復した頃、事件は起きました。

これまた純粋な試合の動画を探していたのですが、裏を語りたいプロレスマニアの解説ばかりしかなく、残念でした💦

長州力は長年、新日本プロレスの4番手に位置付けられていまして、私も大して評価してませんでした(12歳の小6の癖に 笑)。
大体シリーズ中の中継試合では、長州力か木村健悟が負け役でしたし、個人的に長州力は谷啓に似ててパンチパーマでズングリムックリ体型だし…なんて思ってました😅

それが1982.10.8、後楽園ホールからの生中継で事件が起きる訳です。
対戦カードは、「猪木&藤波&長州vsブッチャー&アレン&SDジョーンズ」という、特に変哲もない6人タッグマッチでした。
ですが最初の選手名のコールで、一番目に長州力〜と呼ばれたことで、先ず一度目の怒りが起きます。
タッグマッチの場合、格下から順番にリングアナにコールされますので、長州さんが猪木組の一番格下だと言われてるようなものですから、最初の長州さんの怒りがリングアナに向けられるんです。
その後も試合開始の時、藤波さんとどっちが先発するかで揉め、試合中もタッチを受けるかどうかで揉め、最後は藤波さんがジョーンズを回転エビ固めで3カウントを取り勝ったものの、試合が終わったとあって長州さんは藤波さんに思い切り殴り掛かります。

12歳の私の記憶はここで途切れてます。多分、生中継はこの辺りで終わったんだと思います。
ですが最後に、提供スポンサーを紹介するためのエンディングが30秒ほどあるんですね。
私はそのエンディングも見逃すまいと目を凝らしていましたら、その日のエンディングでは、何を言ってるかは分かりませんでしたがマイクで怒鳴り合ってるシーンが映ってました。

よく長州さんがリング上で「藤波、俺はお前のかませ犬じゃないぞ!」と叫んだと言われていますが、これは後にそう言ったらしい、いや、リング上じゃなくて控室に戻った後らしいと論争になっています。
ともかくリング上で確実に叫んだ言葉は、「なんで俺がお前より前にコールされなきゃいけないんだ、俺がお前の前を歩かなきゃいけないんだ」とのことです。

その後、10.22広島大会、11.5蔵前大会で連続して藤波vs長州のシングルマッチが組まれたのですが、勿論結果は反則裁定ばかり。
でも両選手とも凄い熱気で、試合も凄かったのを覚えています。

年末のタッグリーグは米国遠征を理由に辞退(マサ斎藤さんに会いに行っていた)し、年明け1983.1.6の後楽園ホール大会生中継で、再び事件を起こします。
「坂口征二&キラーカーンvsマサ斎藤&長州力」という試合がマッチメークされたのですが、試合中からカーンさんの動きがおかしいんです。
坂口さんがタッチしようとしたら明後日の方向を向いてたり、坂口さんが無理やりタッチしたら一度だけリングに出て行って、マサさんに優しいボディスラム一発だけやってからまたすぐ坂口さんにタッチしたり。
その内、長州軍の猛攻撃にダウンした坂口さんに対して、カーンさんはトップロープからダブルニードロップを落とします。
そして歓喜して抱き合う、長州、マサ、カーンの3人。革命軍(後の維新軍)誕生です。
このシーンは、12歳男子には衝撃的でした!
何も予備知識なく生中継を見ていますから、カーンさんに対して、なんて酷い奴だ!と怒りが沸き上がるんです。
実は長州さんが藤波さんに反逆後、世間は長州力を応援する方が多かったんですが、真面目な私は(笑)、あんな好き勝手やって真面目なものが馬鹿を見るのはおかしい!と思い、藤波派(正規軍派)になっていました😅

ただ長州軍は興行的にヒットし、1983年は新日本プロレスが最高に盛り上がっていきました。
最初は長州、マサ、カーンだけだった革命軍ですが、3人だけだと人が足らないということもあり、マサさんの伝手か外国人選手が仲間に入ったり、タイガー戸口が臨時加入したりしていました。
…そうなんです、名タッグと言われた長州&浜口組は、革命軍の当初はまだ誕生してなかったんです。
アニマル浜口はずっとラッシャー木村率いる国際軍団にいまして、1983年当初のシリーズでは、地方での試合で、「長州&マサ&カーンvsR木村&A浜口&寺西」という組み合わせが、頻繁に行われているんですね。殆どは無効試合だったり、体格的に一番辛い寺西さんが負け役だったりでしたが、最初は敵同士だった、ここが重要かな?と思いました💡

正式に長州&浜口組が始動するのは、1983.7.7からのシリーズです。このタッグが始動すると同時に、国際軍団が崩壊の危機に陥るんですが、何故かタイガーマスクを追い回していた小林邦昭さんが、国際軍団の助っ人に入ったりして、何とか失地回復を図ります。
ですが革命軍が勢力を拡大していく中、もはや国際軍団は用がないとばかりに、解散させられてしまいました(この辺り、猪木と国際軍団として、別項で書きたいですね~)。

1983年の夏にはクーデターも起きた新日本プロレスですが、テレビを見る限りリング上では変わらぬ光景が繰り広げられていました。

10月には海外遠征に出ていた、デビュー戦で悲惨な目に遭わされた谷津義章選手が長州軍入りし、その他に小林邦昭さん、寺西勇さんも正式加入、軍団名も「維新軍」に変わり、正規軍との対抗戦も過熱していきます。

1983.11.4には4vs4の綱引きマッチが行われ、1984.4.19には5vs5の勝ち抜き戦が行われるなど、絶妙のタイミングでファンがボルテージを上げるマッチメークを仕掛けてくるなど、新日本の戦略はほぼ当たってました。

ですが1984.9には長州軍、そして正規軍だったけど心情は長州派だった選手が次々と新日本を脱退していく事態に陥ります。
最終的には新日本プロレスから脱退した長州派の選手は13名に上り、それまでの栄華はどこへやら…になってしまった新日本プロレスですが、長州さんが藤波さんに反逆し、猪木さんがその反逆を黙認したことが、日本のプロレスの流れを思いきりひっくり返すことになるとは、本当に一寸先は闇ですね。


本当は先にも書きましたが、3つ目のテーマに猪木と国際軍団とUWFを用意していたんですが、気付いたらこんなに書いてしまったので、またいつか…にしたいと思います😅

YouTubeでも、昔あったはずなのに…という試合動画が全然見付からなかったりで、ちょっとフラストレーションが私にも溜まってしまいましたが、読んで頂いた皆様にもイマイチだったかもしれません💦

もしかしたらその3を書くかもしれませんが、前回、そして今回のように、知ってることを何でも書こうとするもんで、無駄に長くなる傾向があります。
今回も長文になり、失礼いたしましたm(_ _)m

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