分からないことがたくさんあって

文・ハネサエ(OTONAMIE)

もうすぐ子育て10年生で、ライター7年生になる。
長さだけで言えば、子育ては義務教育の過程を卒業したことになるし、ライター業は細々ながらも小学校を卒業したことになる。
なのになんてことだろう、いまだにいろんなことが分からない。
悲しいくらい、なにひとつ分かったような気になれない。
先へ先へ進むほど、いろんなことが分からなくなってどんどん自信を無くしていく。それなりの時間をかけてきたことですら、こうして「分からない」なんて、世の中のほとんどは「分からない」でできているんじゃないだろうか。「分からない」がドドンと積みあがった広大な大地こそが世界なのでは、という気がしてくる。

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ありがたいことに、一年を通していろんな場所へ取材に出かける日々を送っている。初めて聞く片仮名の羅列に目と耳がショートを起こしそうになることもあるし、信じられない絶景を前にして言葉を失うこともある。食べたことがないものを食べさせていただくこともあるし、歴史の足跡を知って胸が熱くなることもある。
そのたびに私が定型文のように口にする言葉。

「世の中にはまだまだ知らないことがある」

もはや bot みたいに毎回、飛び出す。
疲れた頭で、感動した胸で、自分の無知を恥じて、その時々いろんな気持ちで言う。
世界は「分からない」の大地に「知らない」が降り積もってできているのかも。

今回、こちらのnoteを書くにあたって、いろんな施設や支援機関の取材に同行させていただいたのだけど、行けば行くほど、やはり「世の中にはまだまだ……」と思った。
そしていくらお話を聞いたって、いくら知ったような気になったって、やはり私は「分からな」かった。
小一時間お話を聞いてあれこれと見知っただけで分かったような気になれるほど、私は聡明でも大胆でもない。自宅に持ち帰って、いろいろ思いを巡らせるほど、いろんなことが複雑でますます分からなくなった。

知人や友人に当事者がいたところで、彼や彼女のことについては少しは分かるけれど、逆に言えば彼や彼女のことしか分からない。個人が変われば事情も変わるし、事情が変われば問題の焦点も変わるだろう。
やっぱり世界は「分からない」だらけだ。
考えれば考えるほど分からないことが混沌と沸いてきて、「知らなかった」を知識に変えてこね回してみても、「分からない」は簡単になくならない。
こんなにもいろんなあれこれが絡み合って「分からない」にまみれていて、次第に私は「分からない」ということについてばかり考えてしまうようになった。

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少し前に、仕事で大学生の青年とご一緒させていただいた。
彼は非常に聡明で誠実で親切であるにもかかわらず、卒業後の進路や将来についてあれこれ案じていて、なぜだろうと思った。
彼はいろんなことに対して「分からない」と言っていて、どうやら自分が「分からない」ことが不安なのらしかった。
「世の中意外とみんな『分からない』と思って生きてますよ」
と話すと「え、そうなんですか」と彼は驚いていた。
そういえば、私も学生時代に就職活動をしていた時、なんだか実態の分からない巨大な塊が目の前にあるみたいで、恐ろしかった。
今ならその正体が「なにも分からない」だったと分かるのだけど、当時の私にはそれすら分からなかった。自分のことも「分からない」し、社会のことも「分からない」し、会社が求める人物像も「分からない」し、どうやったら内定がもらえるのかも「分からな」かった。あまりにあれもそれも分からなさ過ぎて、ただ漠然と怖かった。
あれから20年近く経って、ようやく「意外とみんな『分からないなあ』、と思いながら暮らしてるね」ということに気がついた。
だって、38歳ってうんと大人だと思っていたけれど、ふたを開けた私は今日も「もっと均一に人参を千切りしたいのに、どうしたらいいのか分からない」と思いながら人参を切っている。人参の千切りはいつもどこか不格好になってしまう。

たぶんだけれど、そこそこ名の通ったえらい感じの人たちだって「やべえ、どうしたらいいのかなんも分かんねえ」としょっちゅう思っていて、側近の聡明そうな人に「分からないんだよ」と言いたいと思っている。
そして、側近の聡明そうな人も同じように「私だって分んねえ」と思っているに違いない。
だって世界は「分からない」でできているんだから。

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もし例えば、私の子どもたちが次の時代で「第二の氷河期世代」とか呼ばれて無業だったり、非正規雇用だったりして困っていた場合、やっぱり私は「分からない」と思うんだろう。
「分からない」は力でもある。
「分かった」と思ったらきっとすれ違ってしまうし、「分かった」と思ったらせっかちな私のことだから勘違いをするだろう。
「分からない」と伝えたら彼らはきっと分かってもらうために話をしてくれて、それでもどうしたらいいか「分からない」ともし私が気がついたら、その「分からない」を私はどこかへ繋げようとするだろう。
「分からない」は、誰かを誰かへ繋げてくれる。

子育てだってライター業だって、ずうっと「分からない」では困るんだけど、そのくらいあらゆることってきっと混沌としている上に変化を続けていて、分かりかけたところからかたちを変えていく。
それでもいつか、ぎゅっと手を繋げるような気がして、今日もじたばた足掻いている。時には周囲の助けを借りて、時には誰かに話を聞いてもらって、「分からない」を飼いならして生きている。
そうして振り返ってみたら、「ああ、分からないなりに少しは前進しているんだね」とたまに驚いたりもする。

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就職氷河期のアカウントでなんでこんなことを書いているのか、もっとためになることを読ませてよ、と言われてしまったら身がひと回りきゅっと小さくなってしまう心地なのだけど、でも私は、みんなが「分からない」とちゃんと手を繋いだら世の中はもっと優しくなるよね、と思ったのだ。
支援の話にはいつも当事者と支援者の間に「分からない」がきっと山のようにあって、その「分からない」の擦り合わせをすっ飛ばしてなにかが劇的によくなるなんて多分ない。
「どうしていいか分からない」とか、「なにから始めたらいいか分からない」とか、「どこへ行けばいいか分からない」とか「なにが分からないか分からない」とか、「分からない」を吐き出した先に支援はあると思っている。支援をする側も相手の事情も気持ちも「分からない」から話を聞く。
そう考えると「分からない」ってやっぱりすごく大事。
一番危ないのは自分のことも他人のことも、例えその辺の石ころのことだって、「分かった」と思ってしまうことだよねえ、とたくさんの「分からない」を持て余した末に思ったのだ。

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「分からない」の大地に「知らない」が降り積もった世界で生きる私たちだから、堂々と「分からない」と声をあげていい。
一歩外に出ると世の中は煩雑に混沌を繰り返しているけれど、それを救いあげる社会の仕組みは想像の何倍も親切だ。

こちらのnoteアカウントは、就職氷河期世代はもちろん、働くことに関する様々な不安を抱えた人たちを支援に繋げることができれば、と開設されている。
支援機関別にマガジンもあるので、働くことに少しでも不安や疑問がある方にはぜひ読んでみてほしい。



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