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さかさまな世界

 先日お参りにお邪魔したお家でお茶を出していただいたら、湯呑をのせる茶託(ちゃたく)と高坏(たかつき)がさかさまになっていた。思わず「あ、これさかさま!UFOみたいになってます」と言うとみんな笑いながら「反対にしても使えるから間違うよね」という声も。なるほど!確かにそうだ。調べると、高坏に関しては平安時代逆さにして灯台(灯り)として使用していたことが「枕草子」にも描かれている(『照明学会誌第八三巻』)。高坏の脚の高さは、神仏への敬いの表れだそうだが、それをさかさまにして日用品とするとはすごいアイデア。

 「さかさま」とは①上下の向きが反対であること。物事の本来の順序や位置が逆になっていること②道理に反すること。「さかしま」ともいう(『広辞苑』)。逆に「さかさま」の対義語は「正・順・真」などだ。ひとりの眼で捉える「正」よりあらゆる人の視点が入ることで「反対」を含めいろいろな見方ができるのだと教えられた。
 来年2023年は親鸞聖人御誕生は八百五十年、立教開宗八百年慶讃法要が勤まる。今から百年前、立教開宗七百年慶讃法要記念でつくられた『真宗宗歌』は、真宗の教えを広く世界に広めたいという願いで各派を超えて作られ現在、私たちは研修会などのはじめに三番ある内の一番のみ歌っている。今回二番を歌ってみたい。

とわの闇より救われし 身の幸なににくらぶべき
六字のみ名をとなえつつ 世のなりわいにいそしまん

 南無阿弥陀仏の六字のみ名と世のなりわいとは、一見正反対のようでいて、現代の私たちに先立って親鸞聖人が「いなかのひとびと」と生活をともに歩まれた一つの道でもあったのではないか。
 またこの度の慶讃法要テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれた意味をたずねていこう」とは、すでに受けた私たちの身の幸が仏に念われたいのちであり、濁世(社会)を生きる智慧の生活としてあらゆる「諸有」の人々がリラックスまた安心してくらせる居場所になるよう、たゆまぬ努力を続けることではないか。「さかさまな世界」とは、正しい世界の対極などではなく、自分は安全な場所に居て傍観者となったり、自分に火の粉が飛ばないことには尽力できない私たちの住む世界の構造的な歪みなのかもしれない。

 しかしそういう世界を「ねたんだり悲観したりせず、希望をもって目的に向かえば未来は必ず開かれる」。青年期に独裁制の抑圧を受け、世界の誰にも同じ経験をさせてはならないと難民に国を開いたドイツのアンゲラ・メルケル首相が、世界の平和を願い、このことだけは心の中で守ってきたこととして昨年十二月の退任式で挨拶をされていた。
 人と生まれて生きる身の幸とは、縁ある人と出遇い、ともに生きる世界を先ずは慶べることではないか。

※本内容は2022年12月テレフォン法話で配信された内容です。
中川 和子(なかがわ・かずこ)/四日市市・常願寺住職

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